下落合にいた竹中英太郎 [竹中英太郎]

 竹中英太郎の挿絵は江戸川乱歩、夢野久作の小説の効果を増加させるものとして触れていたし、識っていた。竹中は雑誌『新青年』の挿絵画家であり、戦前の一時期にのみ活躍した人という認識だった。生誕100周年ということで、弥生美術館で竹中英太郎展が開催されたのは2006年9月30日から12月24日までの期間。会場の展示パネルに「下落合に住んでいた」旨の記述をみつけ興味をもった。わが住む街の過去の歴史のことゆえ、本やエッセーにあたって調べてみると、たしかに竹中は「下落合のいわゆる熊本人村」に住んでいたという記述にあたる。だが、誰にきいても肝心の「熊本人村」など知らない。地元に昔から住んでいる住人はもちろん、熊本の友人・知人、文化史に詳しい方にきいてもご存知なかった。昭和初期の竹中の挿絵は江戸川乱歩や夢野久作、横溝正史といった独特の推理小説を彩ったために、その代表作も怪奇幻想の世界を体現している。が、この「闇」を体現するような作風を誇り、十年というきわめて短い活動期間しかもたなかったため、幻とまでいわれた挿絵画家のデビュー前後のことがまさか「闇」の中にあろうとは思わなかったのであった。
 まずは最初の疑問。果たして竹中英太郎は本当に落合地区に住んでいたのだろうか、である。これについては竹中自身が語ってくれていた。熊本日日新聞1980年8月1日夕刊に「竹中英太郎メモワール 『熊本シネマ巷談』の時代」という対談記事が掲載されている。これは『熊本シネマ巷談』の著者である藤川治水と竹中英太郎との対談であるが、この中で竹中は「彼(美濃部長行)を東京・落合の私の家に住まわせたことがある。畑があって、その向こうが作家の小山勝清さんの家。何度か遊びに行っているうちに美濃部は小山さんの娘と仲が良くなり、後で二人で台湾に渡った。」と言っている。対談では何年の事だったのかは語っていないが、美濃部の脚本によって「象牙の塔」という映画(松竹蒲田)が製作されたのは1925(大正14)年のこと。美濃部が竹中のところに身を寄せ、従い二人して落合の住人であったのはこの時期のことであろう。ちなみに竹中英太郎、若干19歳のことであった。また、この映画「象牙の塔」の監督は牛原虚彦であるが、牛原もまた熊本出身であり、帝大卒業後に小山内薫の紹介によって松竹蒲田撮影所に入社している。小山勝清とは知己であったようだ。
 次にこの時期の小山勝清である。小山は1920(大正9)年に単身上京している。無産運動、共産思想に共感した小山は堺利彦の書生となる。そして足尾や釜石の労働争議に関わる。しかし次々に挫折。一旦は郷里の熊本に帰るも、本になるだけの原稿を書き上げて再度上京、妹夫婦のいた下落合に居を構えた。この時の小山の著作は『或村の近世史』(大正14年 聚英閣)。奥付に住所はないが、序文には「下落合二一九四 著者」とある。この旧番地を大正15年当時の住宅地図「下落合事情明細図」にあたると、今の新宿区中井・四ノ坂を上りきった台地の上にあたる場所である。今現在のその周辺地域をみると四ノ坂の登り口には林芙美子記念館があり、近くには画家松本竣介の家がある。また西には目白大学があり、近くの五ノ坂は目白大学生の通学路になっている。地図にみる1926(大正15)年当時は、五ノ坂上部に古屋芳雄邸があり、その北や東の土地は植木畑である。そもそも五ノ坂の道は省線・東中野駅から中井地域に入ってくる街道になっており、五ノ坂を登った道は椎名町を経由して目白駅の方へと続いている。その五ノ坂を登ったあたりを少し四ノ坂の方へ行ったあたりが小山勝清の住んだ場所、つまり竹中英太郎が住んでいた場所である。

竹中英太郎地図原稿.jpg
   
竹中は雑誌挿絵の仕事で知り合った小山の世話によって下落合に越してきたのであるが、近くには、小山と同郷の橋本憲三・高群逸枝夫妻も東中野の家から小山の仲介で越してきていた。このときの生活の様子は高群の『火の国の女の日記』(1965年 理論社)中に「下落合界隈」と題して記載されている。しばらくは高群の日記をたどりたい。

「二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にあたる長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので、小山さんの近所だった。」
「この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。」
「居間は南面し、すぐ前は植木畑であるのが私たちを和ませた。」
「この家ではもはや訪問客はかたく排除された。球磨の四浦出身の小山たまえ夫人だけがときどき長女の美いちゃんを連れて故郷の話をしにやってくるぐらいだった。勝手口から少し離れたところに四世帯共同の井戸があったが・・・・」
「夕方ごちそうをつくっておいて、植木畑を抜けて古屋さんという学者の洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。」

などとある。1925(大正14)年9月19日、アナーキスト詩人たちのたまり場となっていた東中野の家を高群は家出し四国へと向かう。しかし、この家出は中途半端に終わり橋本のもとに条件つきとはいえ戻ることになる。この時、新たな家を探して準備したのが小山勝清であった。小山と橋本、高群は三人がまだ熊本に住んでいた頃からの知己であった。平凡社の社員となっていた橋本憲三のために、関東大震災後に会社に通いやすい借家を探したのも小山である。この時は上落合に新築の家を借りている。この『火の国の女の日記』には竹中についての記述は一度も登場しないが、それは関わりの深さや当時の年齢差(小山・橋本・高群は竹中よりも10歳以上も上の世代)などによるものであると考える。実際には、お互いに極めて近所に住んでおり、小山という共通の知人の存在、熊本との縁ということもあり確実に交流はあったものと考えてよいと思う。いくつかの竹中英太郎に関するエッセーや研究論文にあるような「いわゆる熊本人村」には疑問符があるものの、1925年から26年にかけての約1年間という短い期間ではあるが熊本に縁をもつ小山、橋本、高群、竹中、美濃部がご近所さんであったのは事実であると判断できた。
 私は小山勝清の長女の名前は「ナヲエ」だと聞いていたので、高群がなぜ「美いちゃん」と書くのだろう、と思った。しかし、長女の「ナヲエ」はもともと「みどり」と名づけられる予定であったが、手違いによって勝清の母の名前である「ナヲエ」が戸籍に登録されたのだったことを知った。そして、親しい者の間ではよく「みいちゃん」と呼ばれていたとの事がわかった。改めて実際の地図、現地を歩きながら高群の文章を読むと、地理感覚に矛盾がない。従い、この日記の記述は信憑性が高いと思う。橋本・高群の家はその南側が植木畑である二軒長屋であるので、地図上ではみるかぎり、道に面した二軒のどちらかが橋本・高群夫妻の自宅であろうと考えられる。ここから古屋芳雄邸は歩いてすぐ。植木畑を抜けていった先という点でも矛盾はない。
古屋芳雄邸.JPG  
      現在の古屋芳雄邸 

竹中英太郎住居地2009年.JPG
      現在の下落合2194番地

1926年の地図にある古屋芳雄邸は今も同じ場所にそのままに建っている。古屋芳雄のことを高群は「古屋さんという学者」とさりげなく書いているが、改めて調べてみると古屋はただの学者ではない。画家・岸田劉生には1916(大正5)年に描いた『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』という有名な絵がある。このモデルがほかならぬ古屋芳雄である。描かれた当時は東京帝国大学医学部を出たばかりの頃のこと。一方、古屋は白樺派の小説家、劇作家でもあった。1919(大正8)年12月には岩波書店から『暗夜』という著作を刊行、倉田百三に捧げている。またベルハーレンの『レンブラント』の翻訳をし、雑誌『白樺』に連載、1921年に岩波書店から出版している。この多彩な人物はなんと北海道にも縁がある。1932(昭和7)年日本学術振興会が設立され、そこにいくつかの小部会が設置されたが、その一つが「アイヌの医学的・民族生物学的調査研究」をテーマにしたものだった。座長は東大の生理学者・永井潜。その他のほとんどの参加学者が北海道大学在籍であったが、民族生物学部には金大教授の古屋芳雄が名を連ねていた。そして1935(昭和10)年に北海道において行なわれたアイヌの墓の調査では民族衛生学の研究者として発掘にも参加したのだった。道南の長万部から森にかけての地域にあるアイヌの墓の調査発掘を行なった調査隊の一員としてであった。実は古屋芳雄について知りたくてインターネットで検索した時にヒットしたページに北海道大学の図書館があり、数多くの著作を所蔵しているのに驚いた。その理由は、こうしたフィールドワークを共同で行なったことがあるからなのかもしれない。
 話を橋本・高群夫妻に戻そう。古屋芳雄邸のところで夫の帰りを待っていた高群逸枝。前述のように橋本憲三はこの時、平凡社の社員として働いていた。平凡社の創業者である下中彌三郎も震災前の時期、下落合にあった第二府営住宅に居を構えていたことがある。しかし、大震災により住居を関西に移転、帰京の際には雑司ヶ谷に住み、下落合には戻らなかった。平凡社は橋本が献策し実現させた『大西郷全集』により生気を得たが、まだ小さな出版社にすぎず、起業にあたり理想とした社にするため多数の読者を獲得できるような「売れる」企画が必要な時期であった。また世の中は経済構造の大きな転換点を迎えており、改造社の円本全集の刊行によって出版界も変化しようとしていた時期にあたる。第一次世界大戦後の好景気が一気に後退しデフレ局面にあった。平凡社は橋本を中心に『現代大衆文学全集』という新たな円本全集を企画、起死回生を計る。橋本は下中から企画の一切をまかされ、この企画を作家である白井喬二に相談、ともに進めることとなる。結果として『現代大衆文学全集』は多くの予約を獲得することに成功、まさに平凡社のその後の飛躍の土台となったのであるが、平凡社への出資者は当初この企画に反対、取締役会で否決をした。下中の黙認のもとで橋本がついに新聞広告を出した時には、「これで破産だ」と上野駅で泣いたというエピソードがあるくらいだから冒険ではあったのだろう。白井喬二は、この全集に収録する作家を自ら選択、多くの作家への依頼でも橋本を援助した。下中不在の白井、橋本二人の会談において、白井は全集に挿絵をいれることを提案、橋本は下中に相談せずに独断でこれを了承してしまった。1926年から27年にかけての時期のことである。橋本と竹中はさすがにこの時期には知り合っていたであろう、竹中もこの『現代大衆文学全集』のいくつかの巻の挿絵を担当している。私の手元には25巻の『伊原青々園集』と35巻の『新進作家集』の二冊、竹中の描いた挿絵が掲載されたものがあるが、このほかにも推理作家、小酒井不木の巻にも挿絵を描いている。この『現代大衆文学全集』への挿絵の提供は企画を担当した橋本憲三との関わりが大きかったのだろうと思う。『現代大衆文学全集』の刊行は1927(昭和2)年に始まっているが、雑誌『クラク』へ掲載された挿絵と実際にはどちらが先に描かれたのだろうか。竹中の雑誌『クラク』への登場は1927(昭和2)年11月号からである。『現代大衆文学全集』の装丁は山六郎が担当している。山六郎はプラトン社が発行していた当時の高級文芸雑誌『女性』のイラストレーター兼デザイナーである。また岩田専太郎、小田富彌、山名文夫などとともに大衆文学雑誌『苦楽(のちの『クラク』)』の挿絵も担当していた。竹中がデビューした当時の『クラク』編集長であった西口紫溟(この人も熊本県の出身)の『五月廿五日の紋白蝶』(1967年 博多余情社)によれば佐賀出身の一刀研二と二人してプラトン社を竹中は訪ねたようである。もちろん自分の挿絵見本を持参してである。西口は竹中の挿絵の判断を山名文夫に委ねた。山名は竹中のセンスを評価、岩田専太郎や小田富彌といった挿絵界のスターでもあり、プラトン社の専属でもあった画家たちが去った後任として抜擢されたのであった。そして、プラトン社は竹中を専属挿絵画家として迎える決心をする。しかし、1928(昭和3)年5月、メインバンクの倒産に伴い資金繰りに窮したプラトン社は雑誌に使う紙を差し押さえられて倒産。竹中は収入面での大きな支えを失う。月給100円という莫大な金額の専属画家料の契約を控え、喜んで故郷に帰り、母や家族を東京に呼び寄せる約束をした竹中は途方にくれたであろう。このとき、定職を失った竹中を救ったのは、橋本憲三であった。橋本は出版社への紹介を白井喬二に依頼、白井は『新青年』編集長であった横溝正史あての紹介状を書き、竹中に渡したのであった。竹中は白井の紹介状があったために横溝正史と会えた。初めての出会いなのに、横溝は竹中の挿絵で江戸川乱歩の「陰獣」を飾ることを企画、これが大きな評判になったのである。こうした経緯をみても下落合での小山、橋本、高群との近所付合いがその後の竹中にあたえた影響は決して小さなものでなかったと思うのである。幻想とか怪奇とかいわれる竹中の絵であるが、全ての絵が幻想的、怪奇的ではない。結果として『新青年』で江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史の幻想怪奇的小説に対する挿絵を描いたために獲得した画風だったのだろうと思っているが、その幻想怪奇な世界が今もって魅力的なのであるのも事実である。

<竹中英太郎の挿絵>
竹中英太郎挿絵 伊原.jpg
『現代大衆文学全集』「伊原青々園集

竹中英太郎挿絵・城昌幸「怪奇の創造」平凡社大衆文学全集昭和3年12月1日.jpg
『現代大衆文学全集』「新進作家集」 
          
<参考文献>
『夢を吐く絵師 竹中英太郎』 鈴木義明 2006年 弦書房
『五月廿五日の紋白蝶』 西口紫溟 1967年 博多余情社
『われ山に帰る』 高田宏 1990年 岩波書店
『火の国の女の日記』 高群逸枝 1965年 理論社
『熊本シネマ巷談』 藤川治水 1978年 青潮社
『さらば富士に立つ影-白井喬二自伝』 1983年 六興出版
『或村の近世史』 小山勝清 1925年 聚英閣
『下中彌三郎事典』 1965年 平凡社

<参考論文>
竹中労「百怪わが腸に入らん-竹中英太郎小論」(「芸術生活」73年8月号)
藤川治水「怪奇絵のなかの青春 竹中英太郎推論」(「思想の科学」74年5月号)
尾崎秀樹「現代挿絵考9 竹中英太郎」(「季刊みづゑ」89年3月号)
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ChinchikoPapa

こちらにも、TBさせていただきました。
先週の日曜に、「熊本村」界隈を歩いてきたのですが、ずいぶん工事が進んでました。中井英夫の旧居跡西隣りのI邸が、文化村を髣髴とさせるすごい西洋館を建ててますね。ビックリしました。
by ChinchikoPapa (2009-06-02 14:09) 

ナカムラ

ChinchicoPapa様:コメント、トラックバックありがとうございます。本当です、どんどん変わるのでしょうね。私も見にゆきます。以前にテロリストから・・・で熊本から大杉栄の死に憤慨し・・・とあり、福田大将の狙撃事件に関係が・・・・という備仲さんのコメントについて、今もそうではなかっただろうと思いますが、唯一あれっと思う事実をみつけました。詩人の村上源太郎に何作か挿絵をつけているのです。村上は狙撃事件の古田大次郎や和久田進と深いかかわりがある詩人。大正14年10月15日に死刑になった古田は落合火葬場で荼毘にふされますが、この時期、竹中は熊本人村に住んでいます。10月18日には萩原恭次郎の『死刑宣告』が出版されています。萩原も下落合に住んでいました、この時に。なんだかきな臭いぞと感じています。南天堂喫茶部も絡んできそうです。
by ナカムラ (2009-06-02 23:51) 

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