竹中英太郎のデビューのころ [竹中英太郎]

 雑誌「新青年」で活躍した竹中英太郎のデビュー作はどのような作品だったのだろうか。そんな興味をもって調べ始めた。さまざまな形で参考にさせていただいている鈴木義明の『夢を吐く絵師 竹中英太郎』(2006年 弦書房)67ページには「産業組合協調会発行の労働雑誌『人と人』大正十四年七月号「天保快挙録」(作・筑波四郎)第五回に挿絵を描いたのが、商業誌での画家デビューであった。これは翌年四月号の「最終回」まで英太郎が担当したが、挿絵の上手さはすぐに評判になり編集者の覚えもよく、仕事は途切れなかった。」とある。しかし、雑誌『人と人』を手に取る機会はなかったのであったが、最近になって、『人と人』の1925(大正14)年7月号と、それ以前の3月号を手にとる機会に恵まれた。たしかに7月号には筑波四郎の「天保快挙録」の第五回が掲載されており、そのタイトル部分には挿絵画家として「日野 永」と記されている。しかし、誌面全体を見た際に素朴な疑問も浮かんだ。ほかにも挿絵があるにもかかわらず、画家の名前が記載されているのは「日野 永」のみである。この時、竹中英太郎は若干18歳。この時点ではプロとは呼べないだろうし、名前も通っていない。だのに竹中のみなぜ名前が記載されたのだろう。これは大きな疑問である。前述書において鈴木義明が書いているように、熊本で竹中がいりびたっていた田代倫の紹介によって『人と人』に仕事を得た可能性が高いと私も思うのではあるが。

「人と人」大正14年7月号表紙.jpg       
「人と人」大正14年7月号表紙 

おそらく田代倫の存在がこの雑誌にとっては大きかったのだろう。それにしても、なぜ竹中のみという疑問は残る。この7月号に田代倫は「赤い樽」という創作をよせている。1980年8月1日熊本日日新聞夕刊に掲載された「竹中英太郎メモワール 『熊本シネマ巷談』」の時代」での竹中英太郎と『熊本シネマ巷談』の著者である藤川治水との対談には、田代倫とのつながりが竹中自身によって述べられている。「水平社運動に加わられたのも同時期?」の質問に「ええ、家を出て、春竹にいりびたり。田代倫という人物をご存じでしょう。その『異邦人の散歩』の作者が熊本の春竹の一角に、ノブエさんという女性と住んでいた。ハイカラな人でね、長髪にアゴひげを生やし、頭ははげてて、いまでも、その面影が浮かんできますよ。」と答えている。その後、竹中は小山寛二にスカウトされて浅原健三が組織した筑豊炭鉱組合に加わるも挫折、1924(大正13)年の秋に小山と別れて勉強のために東京に出て来ることになる。

竹中挿絵「人と人」大正14年7月号.jpg  
         「人と人」大正14年7月号掲載の日野 永名義の挿絵

おそらく東京に着いたのは暮れ近い時期であったのではないかと想像する。上京にあたっては、再び東京に戻っていた田代倫を頼ったものと思われる。さて、デビュー作だといわれる挿絵であるが時代物を描くときの竹中スタイルの特徴の一つが出ている。それは雑誌『新青年』」で活躍している時期においても継承されている描き方であった。竹中というとどうしても探偵小説、それも江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史につけた幻想怪奇な挿絵が有名であって、時代ものの挿絵は忘れられがちである。しかし、竹中自身が対談でいっているように絵に関して専門的な教育を受けていない竹中が手本にしたのは熊本の映画館にかかった時代ものの絵看板であった。そういわれて竹中の初期の挿絵をみると映画の1シーンを象徴的に表す絵看板の影響を感じる。映画はこの時代にとってニューメディアであったのであろう。左翼思想、モダニズムなどと並んで映画それ自体が時代の前衛であったものと考える。従い、多くの若者の心を捉えた。竹中の若き日の仲間である小山寛二は筑豊での別れ際、竹中に「活弁にでもなろうかな」と言ったという。活弁とは活動写真の弁士のこと。活弁も花形だったのだろう。小山は、しかし活弁にはならず、1928(昭和3)年に上京、三上於菟吉に弟子入りして大衆作家となった。

竹中英太郎挿絵「新青年」昭和4年1月号 夢野久作「押絵の奇跡」10.jpg
「新青年」昭和4年1月号 夢野久作「押絵の奇跡」への竹中英太郎の挿絵
美濃部長行は脚本家になって「象牙の塔」という映画の原作・脚本を書く。この作品は1925(大正14)年9月に松竹蒲田撮影所において同じく熊本出身の映画監督、牛原虚彦によって映画化された。そして牛原のハリウッド留学の際に持参され、ハリウッドで上映された。映画という新しいメディアが若く才能にあふれている表現者たちを刺激したのだ。『熊本シネマ巷談』(藤川治水著、昭和53年 青潮社刊)には熊本県内の映画館各館のプログラムが復刻、収録されていて大変貴重であるが、1922(大正11)年7月11日発行の『熊本 世界館画報』第十六號には「眞慕露志事 竹中英太郎」が「切に畫報改造を望む」なる一文を寄せていて興味深い。熊本唯一のキネマ雑誌としては余りに内容外観ともに貧弱すぎるので改造すべきだというのが主旨。「それは先第一に体裁の改造である。第一が表紙畫。従来の表紙畫を評すれば紙一杯に拡がった毒々しい感じのする繪である。もちとさばつしたキネマ誌らしい表紙畫を希望する。」とまっさきに表紙画を変更するよう要求しており、さすがに後に挿絵画家となる竹中英太郎らしい。1967(昭和42)年に発行された『大衆文学研究』(南北社)の18号には竹中の「「陰獣」因縁談」が掲載されている。この文章、もともとは平凡社の『名作挿画全集』第四号へのしおりとして挿入された『さしえ』四號より再録されたものである。ここで竹中は「私は自分の勉強の資を得るために、せめて、幼い時分に活動館や芝居小屋の繪看板を眞似て一生懸命に石川五右衛門釜入の圖や猿飛佐助忍術の巻などを描いて喜んでゐた記憶をなりと呼び戻して、挿繪といふようなものでも描いてみるより、他に手近な方法もなかったのだ。」と述べている。竹中にとって映画、映画の絵看板、映画の雑誌といった新しいメディアの周辺事象からの影響が大きかったことがわかる。
 さて、竹中英太郎のデビュー作であるが、もし「日野 永」が竹中英太郎のペンネームで間違いがないとすれば1925(大正14)年の3月号にも挿絵作品がある。この3月号は筑波四郎が「天保快挙録」の連載を始める号である。この小説のタイトル部分には「日野永畫」の記載がある。この3月号は2月20日の印刷納本となっているので、挿絵を描いたのは早ければ大正14年の1月中であった可能性があり、大正13年の暮れ頃に九州から東京に出てきたことを考えると、上京後ほどなくして挿絵の仕事を始めたことになる。ここでも私は若き竹中英太郎一人のみが挿絵画家として名前をクレジットされていることに違和感を感じるが、事実三月号でも「日野 永」のみが記載されている。不思議な事実ではある。

「人と人」大正14年3月号表紙.jpg    
「人と人」大正14年3月号表紙 
竹中英太郎挿画「人と人」大正14年3月号 筑波四郎「天保快挙録」第1回.jpg
同号の「天保快挙録」タイトル部分

竹中英太郎挿絵「人と人」大正14年3月号.jpg
「人と人」大正14年3月号 筑波四郎「天保快挙録」第一回の日野 永名義の挿絵

3月号の挿絵は7月号と比べると少し稚拙な気もするが、『家の光』初期の竹中の挿絵をみると似たようなタッチの挿絵がある。雑誌『家の光』にデビューするのは1925(大正14)年11月号からで、平凡社の社長である下中彌三郎のガンジーにちなんだペンネーム、的間雁二名義の創作「かくて村は甦る」の挿絵が最初だった。このときのペンネームは「草山 英」である。『人と人』での「日野 永」から、『家の光』での「草山 英」へ。そして本名の「竹中英太郎」へと変化してゆく。すると、どうやら竹中英太郎の商業雑誌へのデビューは『人と人』1925(大正14)年3月号ということになるようだ。
 ところで、竹中のデビュー作にあたる「天保快挙録」を書いた筑波四郎であるが、1922(大正11)年11月10日講談社刊行の『探偵事實奇譚』の著者であり、日本のコナン・ドイルといわれた初期の探偵作家であり、探偵実話の紹介者である。後に山名文夫が「探偵小説の挿絵にぴったり」だと感じ、現に雑誌『新青年』において江戸川乱歩や夢野久作との名コンビぶりを発揮した竹中英太郎のデビューにおいて、まるで因縁であるかのように探偵作家が登場するのであるから、不思議なことである。但し、『人と人』での筑波四郎は探偵小説を書いたわけではない。歴史小説としての「天保快挙録」を書いている。しかし、幻想怪奇の画家と呼ばれた竹中英太郎のデビューが探偵小説でなかったけれども、日本のコナン・ドイルと呼ばれた筑波四郎であったことは偶然とはいえない何かを感じた。ところで、「天保快挙録」の連載は雑誌『人と人』1926(大正15)年5月号まで続いた。そして、この時点では竹中英太郎の名前で挿絵を描いている。そして、同じ号の小林生男の長編小説「落葉の道」の挿絵を描いているので、以後も担当した可能性があるが、未調査である。
竹中英太郎挿絵「人と人」大正15年5月号「天保快挙録」.jpg
『人と人』大正15年5月号「天保快挙録」終編への挿絵
nice!(4)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 4

コメント 2

ナカムラ

ChinchikoPapaさん:niceをありがとうございます。百合子の家は学校のすぐ隣ですから無理もないですね。
by ナカムラ (2009-05-13 15:18) 

ナカムラ

kakasisann:NICEありがとうございます。スペインは行ったことがないですが、憧れの場所のひとつです。美しいですね。
by ナカムラ (2009-05-14 18:22) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。