雑誌『家の光』における竹中英太郎挿絵 [竹中英太郎]

 雑誌の実売部数は日本ABC協会によって公表(協会加盟分のみだが)されている。これが公表実売数字として最も信用ある統計数字である。嗜好が多様化し、誰にでも読まれる怪物のような雑誌が少なくなってしまった現在、日本ABC協会に登録されている月刊雑誌の一位は685,132部の『家の光』だそうだ。雑誌『家の光』はJAの家庭雑誌という現在の位置づけであるが、その創刊は1925(大正14)年5月のことであり、JAや農協の前身である産業組合中央会の発行であった。農村向けの家庭雑誌として企画、発行された。1935(昭和10)年以降の10年間は発行部数も100万部を超えており、創刊から80年を経過してもなおトップの実売を誇る稀有な雑誌であるともいえる。
 挿絵画家、竹中英太郎のデビューはすでに書いたように雑誌『人と人』(産業組合協調会が発行)であった。従来の多くの紹介では、雑誌『クラク』という一般総合誌デビュー以前については、『人と人』に挿絵を描いたこと、『家の光』で熊本出身の作家・小山勝清の小説に挿絵を描き・・・・と簡単に書かれることが多いために、私は『家の光』において小山勝清の小説に挿絵を少し描いただけ、くらいの認識でいた。しかし今回、『家の光』を創刊号から順にみていくことができ、その認識は大きな間違いであったと気付くことになった。『家の光』に竹中英太郎が登場するのは1925(大正14)年11月号のこと。この号に平凡社主の下中彌三郎がペンネームである的間雁二で創作「かくて村は甦る」を書いている。これに6点の挿画を描いたのが竹中英太郎であるが、このときはペンネーム「草山 英」を名乗っていた。このコーナーは面白くて、雑誌の巻頭近くにおかれたエッセーの見開き2ページの一部にページ全体とは関係なく小さな囲み部分があり、それが12ページにわたり6つの小コーナーとして展開されている。この掲載の形式は、1926(大正15)年7月号の小城庄三原作、竹中英太郎畫「死の鐘」に至り、初めて“挿絵小説”と名うっての掲載となっている。竹中は的間作品への挿絵提供を皮切りに挿絵を本格的に描き始めている。12月号では小山勝清の連載長編小説「山國に鳴る女」の連載が始まり(大正15年8月号まで)、これに挿絵を添えている。

竹中英太郎挿絵 「家の光」 大正14年12月号 的間雁二1.jpg
『家の光』大正14年11月号挿絵小説    

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年4月号挿絵小説 木下秀盛「母は強し」1.jpg
『家の光』大正15年4月号挿絵小説

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年6月号 小山勝清「山國に鳴る女」1.jpg     
『家の光』大正15年6月号「山國に鳴る女」タイトル


竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年3月号 小山勝清「山國に鳴る女」3.jpg
同3月号「山國に鳴る女」の挿画       

小山勝清の小説への挿絵からかなり本格的な挿絵となっており、力の入り方があきらかに変化している。本文ページに作家の名前のほかに挿絵画家として“竹中英太郎”の文字が印刷されたのは1926(大正15)年4月号からであり、この時から世間的にも『家の光』の挿絵画家としての評価が与えられたと考えるべきだろう。この時の竹中英太郎は1924(大正13)年末、18歳のときに小山寛二らと筑豊炭鉱へオルグとして潜入、挫折し、勉強のために上京してから1年以上が経過していた。上京の際には、熊本で交流の深かった(というか入りびたりだったようだ)田代倫を頼ったのではないかと思うが、1926(大正15)年6月号では、その田代の劇曲「山科の秋」に見事な挿絵を描いている。大正14年の竹中は熊本での友人であり歌人の美濃部長行と小山勝清のところに居候同然にころがり込んでいたようだが、美濃部が映画の脚本を書いており、小山の知己であり帝大出の映画監督である牛原虚彦に売り込んでいたので、牛原虚彦経由小山勝清というつながりも想像されるところである。美濃部は竹中よりも3歳年上なので、この時は21歳、牛原への再三にわたる売り込みにより「象牙の塔」が牛原の監督作品として1925(大正14)年秋に松竹蒲田作品として完成している。主演は鈴木伝明、英百合子。オムニバス三部構成の第三篇のタイトルは「黒猫魔術団」とあり、なんとも気になる作品である。9月18日に封切られている。また、1938(昭和13)年には「怪猫謎の三味線」という映画を牛原は制作しており、可能ならばこれも観たい。また、この映画「象牙の塔」は1926(大正15)年1月に牛原がハリウッドに映画留学した際に持参し、ハリウッドの映画人を集めての試写会で上映した作品2本のうちの1本であったし、評判もよかったようだ。小山、牛原は竹中より10歳くらい年上である。また、近所の借家には小山らと同じ世代の小山の友人二人が住んでいた。それは平凡社社員の橋本憲三と詩人の高群逸枝夫妻である。こうした熊本出身者が小山を中心として1925(大正14)年秋から1926(大正15)年までの約1年の間、下落合の一画に集まって暮らしていたのであった。
この頃の『家の光』の表紙は毎号、杉浦非水が描いていた。しかし、杉浦は表紙のみであり、表紙を飾る杉浦のタッチとは関係なく、デビューしたての竹中英太郎の挿絵やカットの独特のタッチが結果として初期の『家の光』全体のビジュアルな印象を次第に作っていった。それは同時代でいえば、雑誌『女性』の印象を山六郎や山名文夫の美しい線による完成したカットが形作り、同じく雑誌『苦楽』の印象を岩田専太郎、小田富彌、山名文夫の繊細な挿絵が形成し、とプラトン社発行の二つの雑誌のたたずまいを専属画家やデザイナーの画業が決めていたように、この創刊まもない『家の光』を竹中英太郎という挿絵画家がデザイニングしていったように私には見える。それだけの挿絵を描いているし、1928(昭和3)年8月に雑誌『新青年』におけるデビューをし、江戸川乱歩の「陰獣」の挿絵によって大変な評判を得るが、その萌芽はすでに『家の光』においても発揮されているし、すでに竹中英太郎独特の味を醸し出している。1926(大正15)年8月号では、前扉のイラスト、挿絵小説への挿絵6点、終篇となった小山勝清の「山國に鳴る女」への挿絵3点、傳説ページに2点、小城庄三の「聚楽夜話」への挿絵3点とさながら竹中英太郎挿絵集のようになっている。また9月号には「沙羅双二」という画家が突然登場する。だがタッチは竹中英太郎そのものである。目次カットも前扉のイラストも、加藤武雄の小説「野茨」の挿絵も「双二」のサインで描かれている。8月号まで竹中が彼の名前のサインをいれて描いていた小城庄三の「聚楽夜話」の挿絵も「沙羅双二」になっている。唯一竹中英太郎という名前のままなのは、前号の続きである小城原作の挿絵小説のみ。想像にすぎないが、あまりに竹中ばかりの挿絵になってしまっていること、評判だった小山勝清の小説が終わり、それに続くかたちで加藤武雄の小説の連載が始まり、これも竹中が描くことになったことから、編集者の意向または指示によって、別の挿絵ネームを使うことにしたのではないかと思う。この時代にはそうした例が他にもあったようだ。

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年9月 加藤武雄「野茨」1.jpg   
『家の光』大正15年9月号 加藤武雄小説のタイトルカット 目次には画家名記載はない

そして、10月号の目次には加藤武雄の「野茨」の挿絵画家として「竹中英太郎」と印刷されているが、実際の「野茨」のページには「沙羅双二畫」と印刷されているのである。1927(昭和2)年2月号には「沙羅双二畫」となっているがサインは「英畫」とある。昭和2年3月号の「沙羅双二畫」のページに「Ta E」のサインが入った挿画が登場している。こうした混乱からか尾崎秀樹は「『野茨』の挿絵は竹中英太郎と沙羅双二の合作」とみなしたようであるが、沙羅双二はタッチから考えても竹中英太郎の別名であろう。

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年10月 目次2.jpg      
『家の光』大正15年10月号 「目次」(部分)

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年10月 加藤武雄「野茨」1.jpg
同号の本文のタイトル部分

竹中英太郎挿絵「家の光」大正15年10月 加藤武雄「野茨」2.jpg
同号の挿絵

竹中英太郎挿絵「家の光」昭和2年3月 加藤武雄「野茨」1.jpg
『家の光』昭和2年3月号の「野茨」のページ     

竹中英太郎挿絵「家の光」昭和2年3月 加藤武雄「野茨」2.jpg
※サイン部分のアップ

竹中が挿絵の中に描いたサインを拾い出してみよう。「英」「ET」「EITARO」「EITA」「EITRO」「ei」「英太郎」「英太郎畫」「英畫」「英写」「aitaro」「A」「Eisua」「双二」「沙羅双二」「竹中英太郎」「eitaro」「soji」「SARA」「沙羅双二畫」「沙羅双二絵」「Tatusuburo」「S.SARA」「Soji SARA」「SARA SO2」「Ta E」「EITARO.T」など様々なバリエーションのサインを使っている。『家の光』デビューの時にはサインは「ET」であるが印刷された画家としての名前は「草山 英」であった。竹中は、1927(昭和2)年11月にプラトン社の『クラク』で大下宇陀児の「盲地獄」に挿絵を描いて一般総合誌にデビューした、と私は認識していた。つまり『家の光』は本格デビュー前の前哨戦くらいに思っていたのであるが、そうではなかった。そればかりか、『クラク』に挿画を描くようになってからも『家の光』の挿絵を竹中はやめていない。1927(昭和2)年8月から1928(昭和3)年5月まで掲載された前田曙山の連載長編小説「清き罪」に竹中英太郎畫の名前表記で挿絵を描いている。

竹中英太郎挿絵「家の光」昭和2年11月 前田曙山「清き罪」2.jpg
『家の光』昭和2年11月号 前田曙山「清き罪」の挿絵 ※雑誌『クラク』へのデビュー時期の挿絵作品であるが、後に『新青年』に掲載された江戸川乱歩「陰獣」の挿絵を彷彿とさせる筆致である。

1928(昭和3)年5月は竹中にとっても日本の文化史においても重要な転換月となる。『クラク』を発行していたプラトン社が倒産したのだ。また、壺井繁治や高見順、三好十郎らとともに雑誌『左翼藝術』の創刊に参加した。そして全日本無産者藝術連盟、通称「ナップ」が誕生した。できたばかりの左翼藝術同盟は発展的に「ナップ」に吸収された、などなど。時代は大きな転換点にあった。竹中は『家の光』への挿絵提供は続けていたが、これに加えて雑誌『クラク』の発行会社であるプラトン社とは専属契約の話が進んでいた。この話がなくなったのだから、別の雑誌社の仕事をみつける必要に迫られた。平凡社の『現代大衆文学全集』にも挿絵を描いていた竹中は橋本憲三を通じて白井喬二の紹介状を得て、博文館に横溝正史を訪ねることになる。横溝は当時、雑誌『新青年』の編集長であり、竹中の挿絵を見て、ひらめくところがあったのだろう、手元にあった江戸川乱歩の「陰獣」の原稿を渡したのだった。江戸川乱歩の「陰獣」は『新青年』の1928(昭和3)年8月増刊号、9月号、10月号と掲載され大変な評判を得たが、竹中の挿絵もそれを助けたものといえるだろう。『クラク』『新青年』を通じて、今で言う推理小説、当時の探偵小説とコラボする独特なタッチの挿絵スターの一人になっていったのであった。『新青年』でデビューする直前、面白いことに竹中は『家の光』1928(昭和3)年7月号において探偵小説に挿絵を描いている。野良雲夫という作家の「葉書の血痕」という作品である。竹中英太郎にとって雑誌『家の光』の経験は大きかったに違いない。下落合での小山、橋本、高群、美濃部との生活と同様に若き才能に大きな刺激を与え、生活の糧を稼ぐ基礎を作った。挿絵画家になるということ、それは竹中にとって志と異なる展開であったのかもしれない。しかし、後世の我々にとってはありがたい変節であったといえるだろう。竹中英太郎の描いた挿絵を楽しむことができるのだから。

竹中英太郎挿絵「家の光」昭和3年7月 野良雪夫「葉書の血痕」2.jpg          
『家の光』昭和3年7月号 野良雪夫「葉書の血痕」の挿絵

※※竹中英太郎の挿絵原画の多くは甲府市にある竹中英太郎記念館が所蔵、展覧されている。生誕100周年の記念画集も発行されており、その内容は素晴らしい。HPは http://takenaka-kinenkan.jp/ ぜひ実際に訪れて実物をみていただきたいと思う。※※

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