プラトン社時代の竹中英太郎(2) [竹中英太郎]

4.松本泰と惠子 そして函館人脈
 私は竹中英太郎が雑誌『クラク』において挿絵を描いた作家たちの中で松本泰の存在が一番気になった。それは松本泰が東中野在住の探偵小説作家であり、『新青年』にはあまり書かなかった異色の存在である点、彼の妻である松本惠子が函館出身であり、父親の伊藤一隆が札幌農学校の一期生であり、直接にウィリアム・クラーク博士の薫陶を受けた実業家であったこと、泰・惠子夫妻が東中野に建設した谷戸文化村(10軒くらいの借家群)には、やはり函館出身の長谷川海太郎、潾二郎の兄弟が住んでいた、などの関連においてである。

竹中英太郎挿絵「クラク」昭和3年2月号 松本泰「嗣子」3.jpg
『クラク』昭和3年2月号掲載の松本泰の「嗣子」への竹中英太郎挿絵

長谷川海太郎といえば、谷譲次、牧逸馬、林不忘という3つの名前を使いわけた大衆文学における巨人の一人であり、この時期の『クラク』でも牧逸馬名義で執筆している。たとえば、1928(昭和3)年新年号から5月号までには牧逸馬の探偵小説「白仙境」が連載されている。松本泰・惠子夫妻に話を戻そう。松本泰は1887(明治20)年の東京生まれ。慶応義塾大学文学科在学中に雑誌『三田文学』に「樹陰」を発表してデビュー。卒業後にイギリスに留学をした。一方惠子は、1891(明治24)年の函館生まれ。札幌農学校一期生(二期には内村鑑三や新渡戸稲造がいる)の伊藤一隆の次女である。惠子は青山女学院在学中の1916(大正5)年に学院の恩師の紹介によりロンドンに赴任することになった貿易会社社員一家について3年間イギリスに遊学。滞英中の1918(大正7)年に泰と惠子は結婚する。帰国後、泰は1921(大正10)年に探偵小説としてのデビュー作「濃霧」を発表。1923(大正12)年には奎運社を創設、雑誌『秘密探偵雑誌』を創刊する。惠子もこれに協力し、その創刊号から中野圭介という男性名で小説や犯罪実話の翻訳ものをよせた(中島三郎名義も)。男性名義での発表ではあったが、おそらくは中野圭介名の松本惠子の創作探偵小説「皮剥獄門」(1923(大正12)年8月号)が日本で初めての女性作家による探偵小説であったと思われる。しかし、二人の『秘密探偵雑誌』はこの8月号をもって廃刊となる。関東大震災である。この大地震がのちに泰が「嗣子」を書き、英太郎が挿絵を描くことになる雑誌『クラク』(この段階では『苦楽』)と発行元のプラトン社を一躍表舞台に引き出したことを考えると皮肉なめぐり合わせである。1925(大正14)年3月に泰は『探偵文藝』を創刊する。ここで惠子は創作よりも翻訳の方面での活躍を見せる。松本惠子は日本最初の女性探偵小説作家というばかりではなく、アガサ・クリスティーの翻訳・紹介者としても記憶されるべき存在である。さて、長谷川海太郎であるが『探偵文藝』に「夜汽車」を発表、編集の手伝いまでしている。ちなみに長谷川海太郎がその妻となる女性と出会ったのは松本泰・惠子夫妻が主催する「英語研究会」でのことである。彼らは大家・借家人の関係をはるかに越えた交流を行っていた。海太郎と同居していた弟の潾二郎であるが、兄と同居する前には函館以来の親友である水谷準の下宿で同居していた。のちに『新青年』の編集に入る水谷の影響で潾二郎も「地味井平造」というペンネームで探偵小説を書いているのだ。それは、1926(大正15)年に書かれた「煙突奇談」「二人の会話」などである。兄の海太郎も『探偵文藝』において『新青年』の名編集長・森下雨村と知り合い、その縁で『新青年』に「めりけん・じゃっぷ」シリーズの記念すべき第一作となる「ヤング東郷」を発表した。海太郎自身は実は生まれは新潟県佐渡である。父親の長谷川淑夫が函館移住前には佐渡中学で教員をしていたことがあるからで、教え子に北一輝がいる。北一輝といえば、竹中英太郎が何かと世話になった作家・小山勝清と親しい人物。これもなにかの縁だろうか。淑夫は函館で函館新聞社を経営した。この新聞社には一時、海太郎の函館中学の下級(二人とも中退であるが)である親戚の久生十蘭が勤めたこともある。久生十蘭も函館中学の後輩にあたる水谷準の“つて”によって『新青年』に書くようになる。探偵小説における函館人脈である。ところで、潾二郎はもともと画家をめざして上京しており、1924(大正13)年に川端画学校に入学している。ただし数ヶ月で退学してしまったようだ。以後、独学で洋画を学んだ。一方、竹中英太郎も1924(大正13)年に単身上京、時期は確定できないが1925(大正14)年前後に川端画学校の門をたたいたといわれている。竹中英太郎の1925(大正14)年は下落合の東京熊本人村の住人だった時期にあたるが、下落合に引っ越してくる前の橋本憲三・高群逸枝夫妻が住んでいたのも東中野である。そこには夫・橋本憲三を頼って若いアナーキスト詩人たちがたむろしていたようで、小山勝清や居候の竹中英太郎もたびたび訪問していたものと思われる。橋本憲三はやはり同郷の“つて”で志垣寛に下中彌三郎を紹介してもらい、平凡社に勤務していた。そして1928(昭和3)年には『現代大衆文学全集』を作家・白井喬二の協力をえて刊行する。これには、竹中英太郎も挿絵を提供している。橋本・高群夫妻の家と松本泰・惠子夫妻の家はほど近い位置にあったものと思われる。また下落合の東京熊本人村の住人たちも鉄道を使う場合には東中野駅に向かったに相違ない。ただし、竹中と松本泰の借家に住んでいた画家・潾二郎との間に交流が生じたのかどうかは定かではない。

北大農場7.JPG北大農場3.JPG
伊藤一隆が学んだ時代を彷彿とさせる北海道大学の初期農場建築

5.探偵小説挿絵画家誕生前夜
 さて、プラトン社の倒産(1928年5月)によって雑誌『クラク』も廃刊となり、プラトン社との専属契約によって定額の月給生活を目論んでいた竹中英太郎は困り果てることになる。プラトン社の社員デザイナーとして多方面に活躍、すでに高い評価を得ていた山名文夫ですら、一旦郷里に帰ってしまい、ぶらぶら過ごしたようであるから、若き竹中のショックは大きかったろうと想像する。山名にはまもなく資生堂からの誘いが届き、改めて上京してくることになる。竹中も雑誌『家の光』での挿絵の仕事がなくなったわけではなく、継続しているのだが、プラトン社の仕事の比重がこの段階では高くなってしまっており、次の仕事を早急に探す必要があった。とはいえ、つてがないと雑誌の編集長にはなかなか会ってももらえない。おそらくは、つながりのあるだれかれとなく仲介を頼んだのではないかと思う。作家・白井喬二は『クラク』で竹中が挿絵画家として活躍した時期に「邪魂草」(昭和2年11月号)、「虞美人草街」(昭和3年新年号~3月号)の連載と『クラク』にほぼ毎号のように書いていた。また、前述したように平凡社時代の橋本憲三と白井喬二は『現代大衆文学全集』の刊行を通じて親しい間柄にあった。ご近所づきあいであった橋本憲三を通じて話を通してもらって、やっとのことで白井喬二の紹介状をもらったのだろう。それをもって、雑誌『新青年』の編集長である横溝正史を訪ねたのであった。ここにいたって初めて江戸川乱歩との名コンビが生まれる土台が出来上がったわけである。そして最後の鍵は『新青年』編集長の横溝正史にこそあった。作家としての横溝正史の才能については言うまでもないが、横溝は、雑誌編集長としての手腕や、現代のコピーライターのようなプロモーション力も兼ね備えていたようで、江戸川乱歩も横溝の「宣伝文句」をほめている。その横溝が初対面の竹中英太郎に何かを感じたのだろう。乱歩の復帰話題作「陰獣」の生原稿をその場で手渡したのだから不思議である。こうした不思議な運命の連鎖が新たなコラボレーションを生む。探偵小説挿絵画家=竹中英太郎誕生の瞬間であった。

竹中英太郎挿絵6『現代大衆文学全集』第七巻「小酒井不木集」昭和3年3月1日発行.jpg
平凡社『現代大衆文学全集』第七巻「小酒井不木集」昭和3年の竹中英太郎挿絵
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ChinchikoPapa

なんだか偶然が必然を産む、またその逆を産むドラマを見ているようで、すごく面白いですね。こういう人々が綾なす物語が、きっと周辺の落合地域にはまだまだ眠っているのかと思うと、どこかウキウキしてきます。
楽しいお話をありがとうございます。
by ChinchikoPapa (2009-05-21 10:45) 

ナカムラ

ChinchikoPapa様:nice!とコメントをありがとうございます。私も同感で、落合地域の磁場に見事に捕らえられてしまいました。白井喬二は鳥取人脈の人で、尾崎翠にもつながります。少しこのあたりも調べてゆきたいと思っています。
by ナカムラ (2009-05-21 12:01) 

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