プラトン社の雑誌『女性』『苦楽』をめぐって(1) [プラトン社]

1.はじめに
 落合地域での話題という観点から挿絵画家の竹中英太郎に言及してきた。そして、前回は雑誌『新青年』へのデビュー前史となる雑誌『クラク』時代を取り上げた。しかし、プラトン社やその発行雑誌のモダーンなデザインに関して紹介しないと竹中の若きデビューの意味がなかなか理解できないと考え、ここでプラトン社とその雑誌について書いておくべきだと判断した。今回の舞台の多くはプラトン社の本社のあった大阪であるが、落合→竹中→プラトン社というつながりで理解いただきたい。

2.化粧品文化と東郷青児
 絵を志す一方で声楽家も志望していた若き日の東郷青児は、コントラバス奏者の原田潤と知り合いとなる。日比谷美術館での個展、第三回二科展での二科賞の受賞などで華々しいデビューを飾るが、画家としての生活はかならずしも順風満帆というわけではなく、宝塚少女歌劇養成所に音楽教師として招かれていた原田を頼って大阪に行くことになった。おそらくはこの時、1919(大正8)年に東郷は新聞広告で求人をしていたクラブ化粧品の中山太陽堂の広告図案家募集に応募する。これが合格となり、中山太陽堂に入社するが2週間で退社、また原田家の居候に戻っている。東郷と中山太陽堂の縁は続きがあり、東郷がヨーロッパから帰ってからの1933(昭和8)年に広告部顧問に就任、商品の意匠デザイン、雑誌広告や新聞広告などを手がけている。契約期間は定かではないが1938(昭和13)年に発売されている商品の意匠に東郷のものがある。

『女性』昭和2年8月号裏表紙のクラブ化粧品の広告.jpg
『女性』昭和2年8月号裏表紙に掲載されたクラブ化粧品の広告

3.クラブ化粧品と広告
 「双美人」がトレードマークであるクラブ化粧品を製造・販売していた中山太陽堂は、創始者の中山太一が1903(明治36)年に神戸で輸入雑貨の販売を行なうことからスタートした。翌1904年には取扱商品を化粧品に限定、パンゼ水白粉の販売権を得たりしている。1906(明治39)年クラブ洗粉を発売、中山太陽堂は自ら化粧品の製造を始め、自社製造の化粧品を販売するようになった。二十世紀に入ると女性のライフスタイルもやがて変化をし始め、ファッション、髪型、化粧などは変化していった。この変化に対応するように化粧品の需要は拡大し、また製造した商品の販路の拡大、セールスプロモーションや広告は重要な経営課題の一つとなる。中山社長は「化粧品は嗜好品にあらず、文化生活をする上での必需品である」との認識を持っており、化粧品の普及のために、自ら広告宣伝の新手法を考案するようなアイディアマンでもあった。1910年代の大阪毎日新聞紙面に掲載された中山太陽堂の広告をみると、たとえば飛行船をとばして景品券つきの広告ちらしを撒下する、飛行機を飛ばして上空からちらしを撒く、大阪・中の島公園に霧のスクリーンを作ってそこに映写する「空中映寫」を行う、富士登山隊を結成して富士山頂クラブ・デーというイベントを敢行する、松井須磨子一座とタイアップする、人気を博し始めた映画に注目して無料上映試写会を行うなど、ありとあらゆる新規のプロモーションを企画、実行している。セールスプロモーションやイベントもさることながら、新聞や雑誌での広告の掲載は重要な販促活動であり、当時の新聞、雑誌には大量の広告が掲載されている。そのため、1910(明治43)年京橋区五郎兵衛町に東京支店を置き、そこに広告部を設置した。広告部員には画家の織田一麿や作家の柳川春葉、劇作家の伊原青々園などがおり、小山内薫も所属している。

4.中山太陽堂創業二十周年企画と『女性』創刊
 1923(大正12)年、中山太陽堂は創業二十周年を迎える。その記念行事はすでに前年から始められ、また準備されている。たとえば1922(大正11)年4月、創業二十周年紀念祝賀会、講演会、音楽会を行っている。そしてまったく時を同じくしてプラトン社から雑誌『女性』が5月号として創刊されるのである。想像ではあるが、創刊された時期から考え、太一としては太陽堂創立二十周年記念事業の一環であったのではないかと思う。同年11月、六甲苦楽園に「太陽閣」を竣工させ迎賓館とする、1923(大正12)年7月には中山文化研究所を設立など創立二十周年記念事業は続いている。もちろん、これらの全ての事業は化粧品会社である中山太陽堂の大きな意味でのPRにはなるのであるが、太陽閣は大阪市の迎賓館として提供されたし、中山文化研究所も企業内研究所として女性文化、児童教養、整容美粧、口腔衛生の研究を行い、それを紀要にまとめ発表する、講演会を行うなど今でいうところの企業メセナに相当するような活動を行っている点に注目したい。一見すると、中山太陽堂が自社の化粧品を新聞、雑誌などに広告するだけには飽き足らず、自社で自由に誌面作りができ、従い自社のタイアップ企画などを記事や告知にできる雑誌社として「プラトン社」を設立したようにみえるし、私もそう思ってきた。おそらくは、そうした一面も否定できず、自前のPR雑誌を発行することは会社の利益にかなうことであったであろう。しかし、それ以外の面として中山文化研究所に象徴されるように、女性文化、女性の生活に何らかの寄与を果たしたいと思う太一の思いが強くあったのだと思う。従い、創刊された雑誌『女性』の誌面は、以後の誌面とは大きく異なっていた。雑誌『女性』といえば文芸誌として認識されているが、創刊号の内容は婦人問題、恋愛・家庭・夫婦生活などをテーマにした論説、時のスキャンダルやゴシップ、音楽・ダンス・演劇の記事のほかに大阪の公立女学校の情報まで掲載されている。これは大阪ですでにローカル雑誌として発行されていた『女学生画報』のスタッフであった元大阪朝日新聞記者の松坂寅之助(青渓)を営業部門の責任者として雇い入れるとともに雑誌の中身、つまり誌面構成や書き手も含めて、今でいうところのM&Aをすることによって取り込んだ結果であった。プラトン社の社長には太一の実弟である中山豊三、副社長には義弟である河田作造が就任した。創設時、編集部を大阪市東区谷町においたが、これは河田の屋敷であった。顧問には太陽堂の広告部長であった桑谷定逸が目付役として派遣され、編集には宣伝誌『文化』発行のために採用していた今村粲三があたった。営業は松坂寅之助である。このプラトン社からの初の雑誌は、1922(大正11)年4月に『女性』5月号として創刊される。菊判176ページで定価は五十銭であった。
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『女性』大正14年7月号 山六郎による表紙

太一が、雑誌社及び雑誌を作るにあたり現代でいうところのM&Aという方法を選択したと前述したが、面白いことに『女性』には毎号雑誌『赤い鳥』の広告が掲載されている。これはプラトン社が赤い鳥社と提携関係にあったからのことであり、状況によっては赤い鳥社の買収も太一は視野にいれていたようだ。
『女性』昭和2年8月号に掲載された『赤い鳥』の広告.jpg
『女性』昭和2年8月号に掲載された雑誌『赤い鳥』の広告

山六郎・「女性」14年7月・扉.jpg
『女性』大正14年7月号 山六郎による前扉イラスト
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ナカムラ

skimble様:nice!をありがとうございます。私も無類の猫好きですが、マンションでペットは駄目物件に住んでいまして・・・・。写真で拝見することで癒されています・・・。昨年、低空飛行する何匹かの蝙蝠に凄い高さでジャンプしてアタックしている猫チャンをみました。頑張れ!と応援しましたが、つかまらなかったみたい。
by ナカムラ (2009-05-22 15:58) 

吉田 知子

中村惠一様
初めまして、吉田知子と申します。
プラトン社の「女性」と「苦楽」について読ませて頂きました。詳しく書かれてあり大変参考になりました。
私は鎌倉の七里ヶ浜に居住しておりますが、縁ありまして稲村ヶ崎・極楽寺のガイドをさせて頂いておるます。「直木三十五」が稲村ヶ崎に別荘を持っていた事がわかり「女性」の編集を直木三十五が中山太一のプラトン社で編集していた事知りました。
この「女性」と「苦楽」は実際には図書館で見れるとコスメテック文化資料室から伺ったのですが、どちらの図書館で見れますか?
また鎌倉の七里ヶ浜はバレーの発祥地でもあります。バレーの母「エリアナ・パブロバ」は七里ヶ浜に在住しバレー教室を開き多くの弟子を育てた事が今日のバレーの普及に繋がりました。彼女が
中山太一からインドの踊りの中で資料を頂き参考にして無事踊り切る事ができた事がわかっています。
「女性」「苦楽」をこの目で確かめてみたいのですが、閲覧する方法はありますでしょうか?
ご教示頂けたら幸いに存じます。
by 吉田 知子 (2022-08-27 10:57) 

中村惠一

すみません、このブログは放置した状態でしたので、コメントに気づきませんでした。本当に申し訳ありません。雑誌自体は国会図書館で調べましたが、すでにマイクロフィッシュなどの資料になっており、現物は手にとれなかった記憶があります。私は手元に何冊かの現物を古書店で購入してもっています。とくに『女性』は手に入りやすいですし、お値段もそれほどではなかった気がします。
by 中村惠一 (2023-07-21 11:39) 

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