プラトン社の雑誌『女性』『苦楽』をめぐって(2) [プラトン社]

5.『女性』の文芸誌への変貌
 ところが、こうした創刊号での状況は創刊二号に至って一変する。『女性』は大阪ローカルな令嬢御用の雑誌体裁から文芸誌のそれへと変化を始めるのである。小山内薫の戯曲「覚醒」や小山内の実妹である岡田八千代の「彼女と彼」が創刊二号には掲載されている。小山内は、これで中山太陽堂との旧縁を復活、プラトン社の編集部顧問になる。『女性』は小山内薫を顧問に迎えることで、本格的な文芸誌への路線を進むことになった。どうやら、この『女性』の文芸誌への路線変更はプラトン社の社長になった豊三、副社長の河田という義兄弟二人の舵取りのようである。後にプラトン社の活動を「タニマチ」と評するむきもあったように、この後、二人の経営者はいわゆる「大盤振舞」を作家、挿絵画家に対して行なうことになる。これに対して顧問の桑谷は「文芸雑誌をやることは面白いが、文士の喰い物にならぬよう充分腹をくくっておかぬと抜き差しならぬ失敗を招く恐れがある」と豊三に忠告していたが、1923(大正12)年に急逝してしまう。こうした事実をみると、中山太一の当初の意図を外れての本格的な文芸雑誌への変貌ではなかったかと思う。たとえば、大阪朝日新聞に連載されていた谷崎潤一郎の「痴人の愛」は第八十七回で掲載中止となり、その後は『女性』の1924(大正13)年11月号から連載され翌25(大正14)年7月号で完結した。『女性』には多くの作家が執筆した。幸田露伴、田山花袋、佐藤春夫、里見弴、菊池寛、芥川龍之介、武者小路実篤、永井荷風、大仏次郎、北原白秋、長谷川時雨、坪内逍遥、与謝野晶子、島崎藤村、徳田秋声、久米正雄、広津和郎、中村武羅夫、吉井勇、川端康成、室生犀星、横光利一などである。

『女性』大正13年7月号 山六郎による前扉イラスト.jpg
『女性』大正13年7月号前扉に掲載された山六郎のイラスト
 
 この雑誌『女性』のタイトル、イラスト、カット、表紙絵などは1919(大正8)年に京都高等工業学校を卒業し中山太陽堂に入社、意匠部に所属する図案家、山六郎がプラトン社に出向して担当した。細かなタッチによる繊細なカットと小さめの活字によりセンスよく構成された『女性』のすっきりしたエディトリアルデザインは山が中心となって確立していった。

6.山名文夫の入社
 1923(大正12)年3月17日付けの新聞広告でプラトン社は「雑誌その他に関する挿絵及び図案に堪能なる人を求む」として図案家を募集。これに応募、採用されたのが山名文夫であった。同期入社には前田貢、橘文二がいた。山名の入社は5月、さっそく6月にはカットをてがけている。12月、プラトン社では初めての単行本となる里見弴の『四葉の苜蓿(クローバ)』、菊池寛の『貞操』の扉絵を担当した(装幀は山六郎)。『女性』はフランスのファッションプレートとの類似が指摘される表紙絵、本文中に挿しこまれるカットなど文芸誌としての斬新な意匠を山と山名という二人のデザイナーが、この後行っていった。二人のコンビはプラトン社意匠の看板であり、それは『女性』のデザインだけではなく、単行本などにも活かされていた。二人の成果は1928(昭和3)年3月、『女性のカット』という一冊の美しい単行本にまとめられ刊行された。もちろんプラトン社が版元である。

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山名文夫イラスト『四葉の苜蓿』の前扉

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山名文夫イラスト『貞操』の前扉

7.震災で一躍トップ誌に
プラトン社が『女性』を創刊した翌1923(大正12)年、関東大震災が東京を襲う。出版業者の約八割が罹災焼失したという。プラトン社の東京支局も類焼、丸ビルに移転した。が、一方ではプラトン社の編集部は大阪にあって無事であったともいえる。編集部顧問の小山内薫は四ツ谷坂町に住んでいたが、たまたま大阪のプラトン社編集部に顔を出し、その後家族共々六甲に遊んでいて無事であった。一旦東京に帰り、家を里見弴に預けた小山内は海路大阪に向かったが、同じ船には谷崎潤一郎が乗っていた。小山内はプラトン社が準備した大阪の屋敷に入居(今で言う社宅だろうか)、新たな雑誌の創刊に向けての準備にあたる。この小山内を頼りに大阪に来た二人がまったく同じ日にプラトン社に居合わせることになった。そして二人ともに中山豊三社長の面接を受け採用されることになる。直木三十二と川口松太郎である。直木は新雑誌の編集参与格として、川口は編集記者としての採用であった。
もちろん、関東大震災によって東京が壊滅的な打撃を受けたことが二人を大阪に呼びよせる結果になったものである。この時期、作家たちの中にも震災の難を逃れて関西に引っ越してくる者も少なくなかったようで、時ならぬ大阪文壇形成の感があったようである。また、東京の作家たちに原稿を依頼、記者が回収して大阪の編集部に送り、編集したものを東京の印刷所で印刷、流通も東京を中心として行うという無駄の多い体制であったのが幸い、大阪に編集部が無傷で残ったこと、プラトン社や小山内を頼って大阪に来る作家たちもあったことからプラトン社は一躍文芸出版社のトップランナー的な存在になってしまう。

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山六郎装丁による吉井勇歌集『夜の心』

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『夜の心』の奥付 印刷者は直木三十三となっている。

新雑誌創刊の準備は直木が中心となり、小山内と相談、検討しながら進めたが、一時は震災で罹災した菊池寛の『文芸春秋』の買収も考えていたようである。しかし菊池は迷ったものの文芸春秋社を売らず、新雑誌はプラトン社内企画として進んだ。この新雑誌は『苦楽』という名前の娯楽雑誌となり、1923(大正12)年12月に創刊された。『苦楽』のロゴは山名と同期入社の橘文二がデザインした。『苦楽』という雑誌名は、1922(大正11)年11月に中山太陽堂が太陽閣を竣工していた六甲の苦楽園と関係があるのだろうか。山名の回想によれば「雑誌名は最初『ライフ』が採りあげられたが、それを日本語で『苦楽』と置き換えて決定した」とあり、その翻訳は小山内が行ったとのことで、「まことに演劇的な解釈からきたものと思う」とある。しかし、ちょうど太陽堂の二十周年記念で様々な企画が進行している中でのことなので太陽閣との関連も意図されたのかもしれない。目玉企画の一つである「賞金二千円懸賞」は小唄が永井荷風、俳句が久保田万太郎、漫画が岡本一平、美人写真が岡田三郎助と豪華な選者であった。面白い企画という意味ではクロスワード・パズルがある。山名は1959(昭和34)年に書いた文章の中で当時を回想し、『苦楽』に掲載したクロスワード・パズルを山名本人が制作したと書いている。パズルのカギをつくる仕事を川口の指示によって山名が作っていたとの事。さすがに苦労したようだ。ただし、図案家の持ち前として白黒のゴバン模様を成り行きにまかせず、最初に美しいパターンをつくろうとした、とのこと。これはこれで楽しみであったようだ。手元にある『苦楽』第四巻第六号(1925(大正14)年12月)のクロスワード・パズルは「第四回新題『反語』クロスワード・パズル」と題されており、「新しい號が出る毎に本誌のクロス・ワードが大評判です。盡く讀者の意表に出る奇抜さはどうでせう。殊に今月の『反語』クロス・ワードの面白さをご覧下さい。」と鼻息も荒い。本当に評判であったのだろう。この号のタテノカギの1番は「苦」であり、マスは2マス、ここには「ラク」といれる。このクロスワード・パズルの図形は縦・横がともに最大21マスの正方形のひとつの角を頂点にしており、中心から黒いマスが風車のような形で噴出している美しい造形になっており、山名の回想を裏付けている。

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『苦楽』大正14年12月号の奥付

山六郎・「女性」のカット・河井酔茗.jpg
山六郎の雑誌『女性』掲載の河井酔茗作品へのカット
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