プラトン社の雑誌『女性』『苦楽』をめぐって(4) [プラトン社]

9.ライバルの出現
 プラトン社が創業された1920年代、日本は未曾有の好景気の時期にあった。1914(大正3)年に始まった第一次世界大戦は日本に軍需景気を生んだ。1911年から1919年の8年間に日本の国民所得は約3倍に増加。東京が大きな吸引力をもって労働力を受け入れた時期であり、人々がサラリーマン化した時代である。20年代を通じて46%の人口増加を遂げた東京という都市が変貌を始める。途中に関東大震災という大惨事があっての数字である。この時期、文化村や文化住宅が開発され新たなサラリーマンという市民に供給された。文化住宅をみればわかるように、通常の生活空間は和風であるが、客間は洋風。和洋折衷の生活様式が取り入れられていた。こうした新たなライフスタイルが新たな娯楽や新たなメディアを要求していったのだろう。20年代はまさに変化の時代であったのである。しかし、大正期の好景気は長くは続かなかった。また、一企業のPR雑誌の性格を担っているうちはよかったが、本格的な出版事業に乗り出したプラトン社には強敵が待っていた。関東大震災で打撃を受けてはいたが力強く復活を遂げてきた在京の出版社たちである。例えば、1925(大正14)年1月には大日本雄弁会講談社が雑誌『キング』を創刊し、74万部を売り上げた。この『キング』に対抗するために『苦楽』編集長の川口が提案した手段は雑誌の増頁と定価80銭を50銭に値下げすることであった。定価を50銭に値下げした場合、最小限50万部の部数を刷らねば採算が取れない計算であった。賛否両論あったが豊三の決断で「五十万部作戦」という川口案を実行するも返本が山となってしまう。ちょうど私の手元にはこの時期の『苦楽』があり、実見した。たしかに1925(大正14)年12月号は320頁であるが、1926(大正15)年2月号は350頁である。この2月号から30頁の増頁を行ったものだった。1926(大正15)年7月プラトン社の編集部はひとつの決断をする。『苦楽』の編集機能の東京移転である。しかし、川口はプラトン社を辞めてしまう。川口の退社のあとを受け『苦楽』の編集長についたのは熊本出身の西口紫溟である。西口はこの年の3月に入社したばかりであったが豊三の信頼が厚く、編集長として活躍することになった。1927(昭和2)年3月、『苦楽』を『クラク』に誌名変更、その11月号には若き挿絵画家、竹中英太郎が投入される。大下宇陀児の「盲地獄」、本田緒生の「罪を裁く」の挿絵を描いた。プラトン社晩年に花開いたもうひとつの才能の登場だった。

竹中英太郎挿絵「クラク」昭和3年4月号 押川春浪「怪人鐡塔」4.jpg
『クラク』昭和3年4月号 竹中英太郎による「怪人鐡塔」(押川春浪)への挿絵

10.プラトン社の倒産
 1926(大正15)年11月には改造社が円本の広告を開始する。美本として世に問おうとしていたプラトン文庫(1冊5円の定価)は、芝浦の倉庫に置かれたままにお蔵入りとされ、結局は廃棄された。

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プラトン社刊行の『首都』(三上於菟吉)表紙 昭和3年4月5日発行

追い詰められたプラトン社は、ついに『女性』『クラク』ともに1928(昭和3)年5月号を発行して終息した。最後は親会社である中山太陽堂のメインバンクである加島銀行が破綻したのが引き金となり、雑誌発行のもとになる紙を差し押さえられたようである。社長である中山豊三は復活を期して動くも叶わなかった。『苦楽』編集部が東京に移転するのに伴い東京への転居も行った山名文夫であったが、わずかな退職金を受け取り大阪に帰る。そして退職金を使い切った頃に資生堂から入社の誘いがかかる。再び東京に来た山名は資生堂、日本工房などを拠点として飛躍を遂げる。竹中英太郎は横溝正史が編集長をつとめる博文館の雑誌『新青年』に活躍の場を求めた。初期に編集顧問であった小山内薫は震災後にはプラトン社のために大阪にいたが、演劇への思い断ち切りがたく、震災後にヨーロッパから急ぎ帰った土方与志の誘いもあり、1924(大正13)年の築地小劇場の結成に馳せ参じる。そしてなんたる運命だろうか、プラトン社が幕を閉じたのと同じ1928(昭和3)年12月に上田(円地)文子の招待宴席で心臓発作により死去する。時代は大きな曲がり角を迎えていた。この年、特別高等警察が設置され、大陸では張作霖爆殺事件がおきた。戦争の足音が確実にそして音高く聞こえ始めた年だった。

山六郎装丁『足拍子』小山内薫 大正13年プラトン社 前扉.jpg
小山内薫『足拍子』の山六郎による前扉 大正13年プラトン社

20年代、まさに専門職が分化し、職業として成立していった時代だった。岩田専太郎は専門の挿絵画家となり、山名文夫はプロのデザイナー、イラストレーターになる。世界的にも転換点であり、それだけに面白い20年代をその活動期としたプラトン社。その活動期間は、わずか6年と出版社としては極めて短命ではあったが、魅力的な雑誌と魅力的なデザイナー、編集陣を擁したユニークな出版社であった。冒頭書いたように東郷青児は1933(昭和8)年に中山太陽堂の広告部顧問になる。1月のことである。その翌2月、山名文夫が東京支店の図案部嘱託になっている。前年には資生堂の意匠部を退き、フリーとなり山名文夫アド・スタジオを開いており、翌1934(昭和9)年には日本工房に入るので、山名にとってはつかの間の旧縁復活であったのかもしれないが、東郷とのかかわりはなかったのだろうか。気になるところである。

山名文夫イラスト「春月」「クラク」昭和3年1月号前扉.jpg
『クラク』昭和3年新年号 山名文夫による前扉イラスト「春月」

<参考文献>
『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二○年代』 小野高裕・西村美香・明尾圭造 淡交社
『山名文夫』 山名文夫 川畑直道編 トランスアート
『日本のアバンギャルド芸術 <マヴォ>とその時代』 五十殿利治 青土社
『岩田専太郎 挿絵画壇の鬼才』 弥生美術館・松本品子編 河出書房新社
<展覧会図録>
『モダニズムを生きる女性~阪神間の化粧文化~』 芦屋市立美術博物館 
『山名文夫展 永遠の女性像・よそおいの美学』 目黒区美術館
※東郷青児と中山太陽堂とのかかわりについては、損保ジャパン東郷青児美術館、株式会社クラブコスメチックス 経営企画部・文化資料室より資料などご提示いただいた。お礼申し上げます。

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コメント 2

ChinchikoPapa

演劇博物館には、小山内薫の展示スペースがかなり広めに設定されているのですが、プラトン社をはじめ出版分野との関わりについては深く触れられていません。とても勉強になります。
by ChinchikoPapa (2009-05-29 14:50) 

ナカムラ

ChinchikoPapa様:nice!とコメントをありがとうございました。小山内薫については築地小劇場ばかりでなく、映画や出版についても興味深いですから、もっといろいろな面で取り上げられて良い方だと思います。
by ナカムラ (2009-05-30 23:39) 

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