高い大空を見上げるとき―小林多喜二と村山籌子(1) [村山籌子]

1.多喜二の故郷・小樽

 ちょうど30年前、当時18歳であった私は歌人の福島泰樹やそれを迎えた北海道の若手の歌人たちと一緒に小樽に行ったことがある。大学で登山のサークルに属していた当時の私は、岩登りのゲレンデである赤岩にはすでに訪れていたが、小樽という街自体を目的に訪問した初めての機会だった。寒風の中、伊藤整の詩碑の前に立ったことを鮮明に記憶している。私の記憶違いでなければ、この時に小樽名物として初めて「ぱんじゅう」を食べたのだと思う。「ぱんじゅう」は大正時代に東京・神田から全国に拡大した食物。それが生きた化石のように小樽には残っていたのである。30年前の小樽は大正12年に完成した運河を埋め立ててしまうかどうかについて議論している最中であり、運河周辺は全く観光化されておらず、静かなものだった。運河のそばには小林多喜二の小説『工場細胞』のモデルになった北海製罐工場の第三倉庫が灰色の壁をみせ、一方『不在地主』の地主のモデルが所有していたレンガ倉庫はビショップ山田の「北方舞踏派」の拠点になっていた。私たちは戦前のミルクホールの内装の面影を残す「ロール」という(「健全晩酌の店」と看板にあった)店に入って冷えた体を酒で温めたのであったが、小樽はいたるところに大正から昭和初期にかけての空気感があり、不思議な街だと思った。そのときには訪問しなかったのであるが、山側、小樽商大方向の高台の上、旭展望台には小林多喜二の文学碑がある。この文学碑のデザインは彫刻家の本郷新。見開きの本を象って制作したもの。私の手元には新興出版社が1946(昭和21)年5月に出版した『1928.3.15 黨生活者』があるが、この本の装丁は本郷新である。デザインがとても気にいり、特に本郷の装画が好きで手に入れた一冊である。

小林多喜二「党生活者」.jpg
本郷新装丁・装画による『1928.3.15 黨生活者』(新興出版社)

 文学碑には小林多喜二の手紙の一節が刻まれている。それは多喜二が1930(昭和5)年11月11日に収監されていた豊多摩刑務所から、さまざまなかたちで支援していた村山籌子にあてた手紙の中に綴られたものである。

冬が近くなると、ぼくはそのなつかしい国のことを考えて、深い感動に捉えられている。そこには、運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは、人は重ッ苦しい空の下を、どれも背をまげて歩いている。ぼくは何処を歩いていようが、どの人をも知っている。赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上っている街を、ぼくはどんなに愛しているか分からない。

この詩文のような故郷・小樽を思って書かれた文章は、しかし、通常の詩を書くように書かれたわけではない。刑務所の中から投函された手紙なので、紙にびっしりと書き込まれている。この文章の前には東京の秋についての多喜二の思いが綴られているが、こちらも素晴らしいので以下に紹介したい。
     
東京の秋は何処まで深くなるのですか。ぼくは二十四ヵ年北の国を離れたことがない。それで、この長い、何処までも続く、高く澄んだ東京の秋を、まるで分らない驚異をもって眺めている。今日は実によく飛行機がとぶ。ぼくが残してきた北の国では、一台の飛行機が飛んで来ようものなら、何処の家からも、大人も子供もみんな飛び出して、高い大空を見上げる。

この文章に続いて「冬が近くなると・・・・」となるのだ。実に美しい望郷の文章だと思った。だが、村山籌子はそうとばかりは思わなかったのか、多喜二の30(昭和5)年12月26日付の戦旗社あての書簡には「村山籌子さんに従えば、ぼくが何時でも北の国のことばかり考えているから、古ぼけた小説しか書けないそうだが、これも亦恐ろしく本当のことだ。」と述懐している。村山籌子にあてた何通かの手紙には、北の国・小樽の思い出が何度も繰り返し綴られている。籌子はちょっとウンザリしたのかもしれない。そして、国家と闘っているのだからしっかりしなさいよ、と思ったのかもしれない。この30年の一斉検挙では籌子の夫である村山知義も中野重治や立野信之、壺井繁治などが検挙され未決囚のまま収監され続けた。これら刑務所にいた「ナップ」(全日本無産者藝術聯盟)のメンバーたちを村山籌子や壺井栄や原泉は、差し入れや手紙、面会などを通じて支援したのである。

「戦旗」1930年4月号.jpg
『戦旗』1930年4月号の表紙 柳瀬正夢による
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コメント 8

リュカ

こんばんは。
今から24年くらい前に、余市に住んでいました。
小樽まではよく遊びに行っていたのですが
小樽運河、ものすごぉぉぉく汚くて・・・(笑)
今は本当に綺麗になりましたよね^^
by リュカ (2009-07-24 21:59) 

信州のりんごほっぺ

こんばんは
「ぱんじゅう」・・・どんな食べ物かしらとネットで調べました
ぱんじゅうとは、小樽市内で作られてきたタコ焼き大のおやきのこと
と書かれておりました
初めて知りました^^
小樽運河18年位前に行った事あります
by 信州のりんごほっぺ (2009-07-24 23:09) 

ものたがひ

18才の頃、私はリューベックを愛した小説家が好きだったです。^^
by ものたがひ (2009-07-26 10:47) 

ナカムラ

リュカ様:コメントありがとうございました。小樽運河は当時は汚かったですね、本当に。小樽文学館の館長になった故・小笠原克さんや北大の当時助教授だった神谷忠孝さんが「小樽運河を守る会」を作って、一人とか二人で運河に入ってヘドロを自らすくっていた姿を思い出しました。今は本当に変わりましたね。今後とも宜しくお願いします。
by ナカムラ (2009-07-26 13:01) 

ナカムラ

信州のりんごほっぺ様:コメントありがとうございました。信州といえば、松本に3か月だけでしたが暮らしたことがあります。朝、白鳥の声で目をさますというような環境で、大好きでした。ぱんじゅうですが、私も少し調べたことがあって、夕張、札幌、足利(栃木県)、松坂(三重)、熊本などに残っているようでした。もともと松坂出身の方が神田で始めたようです。一時は銀座のど真ん中に店を構えて、全国に100店近いフランチャイズ店を抱えたようです。大正後期から昭和初期にかけてのこと。ぱんじゅう本店は戦後、松坂に帰って営業していたようですが、今は後継者なく店をたたんだようです。残念です。小樽のものは、30年ほど前は小樽名物だと札幌の人たちに教えられましたが、どうも違っていたようで。今後ともよろしくお願いいたします。
by ナカムラ (2009-07-26 13:10) 

ナカムラ

ものたがひ様:コメントありがとうございます。リューベックを愛した作家とはトーマス・マンでしょうか。私は18歳のころは、フランス系統の作家を読んでいたように思います。あとは香山滋とか久生十蘭とかの推理作家とか。
by ナカムラ (2009-07-26 13:23) 

kuwachan

こんばんは。
小樽は何回か訪れたことがありますが
「ばんじゅう」のことは知りませんでした。
今では運河の辺りは観光地ですね。
by kuwachan (2009-07-26 23:56) 

ナカムラ

kuwachan様:コメントありがとうございます。ぱんじゅう、機会がありましたら是非。割とおいしかったですよ。運河あたりは変わってしまいました。以前は海猫屋さんにたどりつくまでがさびしい状況でしたのに・・・。
by ナカムラ (2009-07-27 12:25) 

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