未来派百周年と三角の家(1) [村山籌子]
1.未来派宣言100周年
今年の2月20日は「未来派創立宣言」から丸100年の節目であった。1909年2月20日、『フィガロ』紙にフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが創立宣言を掲載してからまさに一世紀が経過したのである。
「未来派(フューチャリズム)」、それは過去の芸術の徹底的な破壊と機械化によって実現された近代社会の速さを讃えるもので、イタリアを中心として起こった前衛芸術運動であった。その後のアヴァンギャルドな芸術運動の起点となった点でも未来派はとても重要な運動であった。日本にも同時的に未来派は入ってきた。何と日本での未来派宣言の紹介は、森鴎外の翻訳によるもので、雑誌『スバル』が1909年に掲載したものであった。また、実際に未来派芸術が日本で紹介されたのは、イタリアから直接ではなく、ロシアからであった。ロシア未来派のダヴィッド・ブリュリュークが来日、各地で大規模な展覧会を行なったのは1917(大正6)年のことだった。そして、1920(大正9)年、普門暁が未来派美術協会を設立した。そして未来派展覧会を開催した。
「闘争のなかにしか、もはや美はない。攻撃的な性格をもたない作品に傑作はありえない。詩は、未知の力を人間の前に屈服させるための、未知の力に対する荒々しい攻撃として把握されねばならない。」(未来派宣言の一節)
未来派の総帥マリネッティに直接会った男がいる。ベルリンに留学していた村山知義である。村山は1922(大正11)年にベルリンに哲学の勉強のために留学するも、ワルデンの画廊「シュトゥルム」にたびたび訪れるうちに前衛芸術に魅かれ、自ら前衛芸術家に転じてしまったのであった。村山の著書『演劇的自叙伝2』(1971年 東邦出版社)にはこの時期のことが書かれている。その年、デュッセルドルフで国際美術展覧会が開催され、そこにイタリアからマリネッティが未来派の宣伝のためにベルリンに来ていたのであった。そして、その先触れとしてベルリンに乗り込んでいた、詩人のヴァッサリと画家のマドモアゼル・ボグスラヴスカヤをワルデンから紹介された。指定されたホテルの部屋を訪れ、村山は作品を見せているようだ。
村山知義の『演劇的自叙伝2』
村山知義が中心になって発行していた雑誌『Mavo』6号。ヨーロッパのアヴァンギャルド雑誌との交流があった雑誌。
今年の2月20日は「未来派創立宣言」から丸100年の節目であった。1909年2月20日、『フィガロ』紙にフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが創立宣言を掲載してからまさに一世紀が経過したのである。
「未来派(フューチャリズム)」、それは過去の芸術の徹底的な破壊と機械化によって実現された近代社会の速さを讃えるもので、イタリアを中心として起こった前衛芸術運動であった。その後のアヴァンギャルドな芸術運動の起点となった点でも未来派はとても重要な運動であった。日本にも同時的に未来派は入ってきた。何と日本での未来派宣言の紹介は、森鴎外の翻訳によるもので、雑誌『スバル』が1909年に掲載したものであった。また、実際に未来派芸術が日本で紹介されたのは、イタリアから直接ではなく、ロシアからであった。ロシア未来派のダヴィッド・ブリュリュークが来日、各地で大規模な展覧会を行なったのは1917(大正6)年のことだった。そして、1920(大正9)年、普門暁が未来派美術協会を設立した。そして未来派展覧会を開催した。
「闘争のなかにしか、もはや美はない。攻撃的な性格をもたない作品に傑作はありえない。詩は、未知の力を人間の前に屈服させるための、未知の力に対する荒々しい攻撃として把握されねばならない。」(未来派宣言の一節)
未来派の総帥マリネッティに直接会った男がいる。ベルリンに留学していた村山知義である。村山は1922(大正11)年にベルリンに哲学の勉強のために留学するも、ワルデンの画廊「シュトゥルム」にたびたび訪れるうちに前衛芸術に魅かれ、自ら前衛芸術家に転じてしまったのであった。村山の著書『演劇的自叙伝2』(1971年 東邦出版社)にはこの時期のことが書かれている。その年、デュッセルドルフで国際美術展覧会が開催され、そこにイタリアからマリネッティが未来派の宣伝のためにベルリンに来ていたのであった。そして、その先触れとしてベルリンに乗り込んでいた、詩人のヴァッサリと画家のマドモアゼル・ボグスラヴスカヤをワルデンから紹介された。指定されたホテルの部屋を訪れ、村山は作品を見せているようだ。
村山知義の『演劇的自叙伝2』
村山知義が中心になって発行していた雑誌『Mavo』6号。ヨーロッパのアヴァンギャルド雑誌との交流があった雑誌。
バ~スディ♪コメ~ありがとうございました^^
by abika (2009-08-09 13:39)
いつもいつもありがとうございます☆
by やまがたん (2009-08-09 18:58)
>闘争のなかにしか、もはや美はない。攻撃的な性格をもたない作品に傑作はありえない
これは未来派にかぎらず、いつでも通用する事実だと思います。新しい芸術を作ろうとすれば、攻撃的でなくとも、既成観念を否定、或いは変更せざるをえない訳ですから。
未来派と言う言葉に、若い頃、ただ憧れていました。
by アヨアン・イゴカー (2009-08-09 19:35)
abika様:コメントありがとうございます。ラスベガスカジノ編は推理小説みたいで楽しませていただきました。
by ナカムラ (2009-08-09 22:13)
やまがたん様:こちらこそいつも、おいしそうな情報をありがとうございます。
by ナカムラ (2009-08-09 22:15)
アヨアン・イゴカー様:コメントありがとうございました。未来派は攻撃的な表現というばかりではなく、ファシスタ党を支持するというところまで行ってしまいます。それもあって、今では・・・・だと思います。ただ、作品をみると未来派が試みたことは現在にまで多くの影響を与えていると感じます。これからもよろしくお願いします。
by ナカムラ (2009-08-09 22:19)
演劇的自叙伝の文字がまた、アバンギャルド
ですね。
by なぎ猫 (2009-08-10 10:39)
なぎ猫様:コメントをありがとうございました。村山知義本人の描き文字です。50年代の作だと思いますが、たぶんに20年代を意識した意匠ですね。たぶん来年、神奈川県立美術館において村山知義の回顧展で開催されます。再度注目されるかもしれません。
by ナカムラ (2009-08-10 12:34)
興味ある内容です。このような視点で過去を見ていなかったので、今後中村さんのブログを通じて勉強させていただきます。
by Krause (2009-08-10 18:10)
Krause様:コメントありがとうございます。なぜか20年代に興味をもってしまいました。これからも少しづつご紹介してゆきたいと思いますので、宜しくお願いします。北海道の東海岸まで空手の審判でいかれたんですね。凄いなあ。森山大道の『Nothern』という写真集をみながら北海道を思っている今夏でした。
by ナカムラ (2009-08-10 18:18)
お恥ずかしながら、未来派はしりませんでした。
勉強させて頂きます。
by 駅員3 (2009-08-11 18:14)
駅員3様:コメントありがとうございます。こんごともよろしくお願いします。坂道について私は勉強させていただいております。
by ナカムラ (2009-08-12 00:26)