公楽キネマの銀幕のこと(2) [村山籌子]

2.籌子からの手紙

 村山は、「赤旗」を秘密で読むグループに入っていたこと、また共産党に毎月資金を提供していたので、事実を探知されたら大変なことになると緊張したようだ。ナップ(全日本無産者芸術連盟)メンバーであった村山は、この時すでに共産党のシンパとして組織されていた。また、この時は雑誌『戦旗』に書いた「妥協はない!」というタイトルの小説について取り調べられた。しかし本質的な嫌疑は共産党への資金提供であり、7月に起訴され、17日には豊多摩刑務所に送られた。中野駅の近くにあった刑務所である。この時、村山知義ばかりではなく、中野重治や立野信之、小林多喜二などが刑務所に入っている。そして、彼らの妻を中心に救援隊が作られ、支援を始めたのであった。支援の第一は、獄中の彼らに手紙を書くことだった。手紙によって通信、連絡を行なったのである。そして、そうであったからこそ、書簡集として手紙が残ったのが、村山知義の妻の籌子の場合だった。

「ありし日の妻の手紙」櫻井書店.jpg
『ありし日の妻の手紙』村山知義編 櫻井書店

籌子は1946(昭和21)年8月4日、鎌倉長谷の家で息を引き取った。そして1947(昭和22)年10月、櫻井書店から『ありし日の妻の手紙』が村山知義の編集によって出版される。以下は知義による序文の一部である。

そして今またこの書簡集が世に送られようとしている。そのことを彼女が知ったら、きっと大反對したろう。この手紙たちも私がひそかに取っておいたものだ。引越しの時に彼女はそれを見た。 「まあいやだ、そんなものを取ってあるの?」 「うん、まあいいさ」 と私は答えて、手早くしまいこんだ。

知義が取っておいたのは、三度獄中にあったときの籌子から送られた手紙だけであった。しかし、その内の最も量の多かった1932(昭和7)年~33(昭和8)年の分は空襲で全部焼けてしまったので、残ったのは1930(昭和5)年の分を中心とした51通だけであった。1930年5月20日、知義は治安維持法違反の容疑で逮捕され、戸塚署、水上署、杉並署といった警察署を盥まわしにされた後、豊多摩刑務所に収監され、その年の12月22日に出所した。『ありし日の妻の手紙』に収められた最初の手紙は5月22日付となっているから、逮捕された直後に書かれたものということになる。

お晝から社に行って、仕事をして、夜、山内公さん夫妻と公楽キネマへ斬人斬馬ケンを見に行く豫定。といふと仲々悠々とした生活をしてゐるやうで華やかさうですが。オハリ。

「社」とは戦旗社のことで、籌子は雑誌「少年戦旗」の編集の仕事をしていた。

「戦旗」1930年4月号.jpg
雑誌『戦旗』1930年4月号 表紙は柳瀬正夢
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コメント 4

chako

叔父と伯母は「蟹工船」などの劇を公演しています。
手紙はいいですね。メールは消えていきますから…。
by chako (2009-08-27 00:20) 

ナカムラ

chako様:コメントありがとうございました。そうでしたか。『蟹工船』がこの時代に再度ブームが訪れようとは思ってもいませんでした。小林多喜二もよく上落合には来ていたようです。うちのそばに一時、戦旗社だった場所があって、そこに「蟹工船」の原稿は届いたようです。手紙とメールの大きな差に質感があるかもしれません。手紙も残さないと消えてしまいますが、メールよりは残るでしょうか。なんだかさびしいですね。
by ナカムラ (2009-08-27 10:53) 

kuwachan

こんにちは。
手紙はなかなか捨てられないですよね。

by kuwachan (2009-08-27 13:11) 

ナカムラ

kuwachan様:コメントありがとうございます。手紙は棄てられないですね、私も。
by ナカムラ (2009-08-27 15:36) 

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