公楽キネマの銀幕のこと(4) [村山籌子]

4.翠とチャップリン

 チャップリンが登場したところで、再び尾崎翠の「映畫漫想」に戻りたい。『女人藝術』の1930(昭和5)年4月号に「影への隠遁」という短文があり、チャップリンに言及している。

そして・・・・チャアリイ!知ってるかい。雪を浴びた君の肩に、また雨が降ってるんだ。草臥れきったフィルムが降らせる雨の効果は・・・・しかし君は知ってるに違ひない。

「映畫漫想(二)」にはチャップリンへのオマージュが綴られている。

――我輩は帽子です――さう、チャアリイは帽子だ。彼から秘密を打明けられるまでもなく、チャアリイの帽子は彼の全身と言っていい。また、彼の創る全世界は帽子だと言っていい。
ながめたところ、ただひとつの、誰の頭に載っかってても差支なささうな山高にすぎない。(おまけに金鑛地の吹雪と公楽キネマの雨に打たれ、地は毛羽だち、つばは草臥れてゐるのだ)だから、ちょっとダグラス・マツクリインの頭に載っけてみる。

この一節は「杖と帽子への愛」と題された文章で、全編がチャップリンへの讃となっている。雑誌『詩神』6巻1号(1930年1月号)に「私のすきな男性!」というコーナーがあり、中本たか子、戸田豊子、素川絹子といった『女人藝術』の作家たちとともに尾崎翠も文章をよせている。中本たか子は「そのうち報告する」、戸田豊子は「私の好きな男性?」、素川絹子は「男と女の見榮坊」と三人ともに現実的な男性像を語ろうとしているが、一人尾崎翠だけは「影の男性への追慕」と題して銀幕の男性俳優への想いのみを熱く語っており、異質である。しかも、男優を通して「男」を見ているのではなく、男優を通してやはり映画を語っているのである。

影とは一つの映寫幕を通してのもの。現身以外のものの精です。・・・・互ひにぶつかり合ふ個個の影を並べる所以です。

チャアリイ=吹雪に吹かれる幅狭の肩。パンを啖ふ髭 待ちぼけの心臓。跛の藁沓。ポテトオ・フオオク・ポテトオ。杖。スボン。帽子。――全身。全付属品。君が創る全世界。君が撒く全悲哀。

こうして読んで来たら、『女人藝術』に掲載された尾崎翠の小説に思いが至った。それは「木犀」という小説。「木犀」は1929(昭和4)年3月号に掲載されている。その冒頭部分を引用するが、上落合での尾崎の下宿や公楽キネマなどをモチーフにしており、とても興味深い。

木曜。今日はチャアリイが衆楽キネマの幕から消えてしまう日である。私は彼に別れを告げに出掛けなければならない。夕方の六時になって火葬場の煙突が秋の大空に煙を吐き初めると、私は部屋にじっと坐ってゐられなくなった。私は三日前の夜からチャアリイを戀してゐるのだ。

家の近くまで來てふと思ひついて這入った場末の哀しい衆楽キネマで、月おくれのゴオルドラッシュをやってゐた。擦り切れた古い寫眞の中でぶるぶると踊るチャアリイのポテトオが胸に迷ってゐた涙を素直にほぐしてくれた。そしてN氏の影の代りにチャアリイが私の心臓を捕へた。

村山籌子の文章にも、そして尾崎翠の文章にも、お互いに関する記述はなかった。だが、だからといって二人がお互いを意識していなかったということにはならないだろうと思う。二人はほぼ同時期に雑誌『女人藝術』に書いていた。そして、ほぼ同時期に上落合にあった公楽キネマで映画を見ていたのである。映画館が作る闇の中で、二人がすれ違うことは果たしてなかったろうか。銀幕の影に二人が同時に息をのむことはなかったろうか、などとつい想像を逞しくしてしまう。わが家からもさして遠くない場所にあった公楽キネマは、1945(昭和20)年5月25日の山の手大空襲によって焼失してしまったのであった。今はない公楽キネマの銀幕を前に村山籌子と尾崎翠が匂いについて語り合う姿を私は想像するのである。戦争に雪崩れてゆく時代にあって、二人はともにあえて沈黙を守ろうとしたなと思いながら。

「女人藝術」2-10号 昭和4年10月號 村山かず子写真.jpg
『女人藝術』2巻10号掲載の村山籌子の写真

村山かず子「私を罵った夫に輿ふる詩」「女人藝術」2-3号 昭和4年3月号.jpg
『女人藝術』2巻3号掲載の村山籌子の「私を罵った夫に輿ふる詩」

村山知義装丁かず子作品集1.jpg
村山知義装丁による『村山籌子作品集1』
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コメント 4

アヨアン・イゴカー

>村山知義装丁による『村山籌子作品集1』
リボンときつねとゴムまりと月
この組み合わせが詩的で好きです。可愛らしい。そして、この装丁、80年も前の時代の空気がその中に入っていて、郷愁を感じさせるような、懐かしさがあります。それにしても、きつねは何処?
by アヨアン・イゴカー (2009-08-31 19:34) 

ナカムラ

アヨアン・イゴカー様:コメントありがとうございます。いわれてみればキツネ君いませんね。気がついていませんでした。まさか食事になっちゃたわけではなさそうですが。村山知義の童画は今見ても面白いですね。子供之友によく描いていたみたいです。
by ナカムラ (2009-09-01 00:24) 

abika

ナカムラさん、いつもありがとうございます^^
 ↑ ほんとだ~きつねさんはどこ…??
個性的なイラストで、面白いですね♪
by abika (2009-09-01 01:35) 

ナカムラ

abika様:コメントありがとうございます。きつねさんがいないことに
全然気づいていませんでした。カズコの話はどんなだったか思い
出せないでいます。
そうだ、話は違いますが、カズコの実家は高松の岡内家といって
製薬会社。万金丹という万能薬を売り子にもたせて行商させてい
た家なんですが、それが黒い装束で売り歩いたので「まっくろ
くろすけ」と呼ばれていたんだそうです。トトロのまっくろ黒スケって
カズコの実家が発祥??・・・勝手な想像ですが。

by ナカムラ (2009-09-01 12:27) 

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