橋浦泰雄という日本画家のこと(1) [尾崎翠]

1.橋浦泰雄は北海道につながる

 今年新たに興味をもって調べている対象に橋浦泰雄がいる。そのきっかけは、昨年、日本近代文学館で開催されたシンポジウム「尾崎翠の新世紀-第七官界への招待」にあった。尾崎翠関連の新発見の資料として尾崎翠から橋浦泰雄あての手紙・ハガキが展示されていたのであった。手紙を差し出した尾崎翠の住所は、同居していた詩人・松下文子と別に暮すようになってから転居した上落合842番地の岸さん方である。1930(昭和5)年4月28日の消印が打たれている。まさに、尾崎、橋浦ともに共通の知人であり、ともに郷里である鳥取に講演のために赴くはずだった生田春月が、関西に恋人を尋ねながら絶望し、瀬戸内海に投身自殺をする直前のことである。1930(昭和5)年に鳥取・自由社は、鳥取出身の文化人として橋浦泰雄、生田春月、尾崎翠の3人に秋田雨雀を加えた4人を「文藝思潮講座」の講師として招いた。直前に自殺してしまった生田春月を除いた3人のこの時に撮影された写真が残されている。
 頼んでおいたカタログ『「橋浦泰雄―旅への導き」展』が岩内の木田金次郎美術館から届いた。橋浦泰雄はさまざまな活動を行なっているが、職業としては日本画家といっていいのだろう。しかも、橋浦泰雄は北海道にも木田金次郎にも関係があったのである。どんなつながりや関連があったのかは、橋浦の自叙伝『五塵録-民族的自叙伝』(1982年 創樹社)によりたどってみたい。
五塵録 ブログ.jpg  
            『五塵録』書影 
橋浦泰雄は、尾崎翠と同じ鳥取県石見町の出身。1888(明治21)年11月30日に岩井郡大岩村字岩本で生れている。四男であるが、十人兄弟の六番目であった。三男の義雄は札幌で肉屋を営む小谷家の養子となった。五男の時雄は幸徳秋水、堺利彦らの「平民新聞」の影響を受けて社会主義活動家になったが、1910(明治43)年大逆事件に巻き込まれて検挙されている。六男季雄は東北帝国大学札幌農学校で有島武郎の教え子となった。兄弟を通じて、北海道への足がかりはできていた。

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アヨアン・イゴカー

全く本文とは関係ありませんが、この本の表紙の仮面は、イヌイットなどのシャーマンのものでしょうか?面白い造形ですね。
by アヨアン・イゴカー (2009-11-03 12:26) 

ナカムラ

アヨアン・イゴカー様:コメントありがとうございます。さすがです、私の本文とは関係ありませんが、橋浦泰雄にとってはおおありなんです。日本画家を本業とした橋浦ですが、有島や木田金次郎から原始共産制についての話を聞き、民俗学に興味をもってしまうのです。しかも、その探究たるや素人の域をはるかに超え、なんと柳田国男の一番弟子のような存在にまでなってしまいます。仮面はしたがい、橋浦の研究対象だった民族学的な資料でしょうから、イヌイットではなく、北方民族のものではないかと思います。すみません、詳しくなくて解説できません。でも、橋浦泰雄って面白い人物だと思いませんか?
by ナカムラ (2009-11-03 20:25) 

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