橋浦泰雄という日本画家のこと(2) [尾崎翠]

2.有島武郎・足助素一との関係

 初めて橋浦泰雄が北海道へ行ったのは1914(大正3)年10月下旬のこと。この時は、「講義録」を刊行する資金の調達のために札幌の兄・義雄を訪ねるためだった。そして、面白いことに橋浦の講義録出版事業を作家・白井喬二が手伝っている。白井は生まれこそ鳥取ではないが、両親が鳥取出身だったこともあり橋浦や野村愛生らと雑誌『水脈』をたちあげた仲間であった。ちなみに、1910(明治43)年に白井は一時帰郷の際に尾崎翠が卒業した面影尋常小学校の代用教員を務めている。大学生だったので、今の感覚からいえば、夏休みの塾の講師のアルバイトという感じだったのかもしれない。もちろん、尾崎翠はすでに卒業してしまっていた。1916(大正5)年1月上旬、「蓬髪ひとえによれよれの小倉の袴をはき、目のぎょろっと鋭い青年」が季雄を訪ねてきた。足助素一である。足助は橋浦より11歳の年長で、岡山出身。同志社中学から札幌農学校で学んだ。札幌では教師だったり貸本屋だったりしたが、この時期に有島と親交を深めたようである。東京に出てきた当初は渋谷・道玄坂で屋台の焼芋屋を始める。屋号の「イポメ屋」という看板は有島武郎が書いたものだったらしい。1916(大正5)年4月にはいって間もない頃、有島が季雄を通じて泰雄の話を聞きたいから、会ってくれないかと言ってきた。よかったら麹町の有島の自宅で・・・との事であった。弟の季雄は新渡戸稲造が校長であり、有島がその代理を務める札幌遠友夜学校の先生として、有島を手伝っていたので、出京後も有島や足助をたびたび訪ねていたものであった。泰雄は4~5日後に季雄を同道して麹町の有島の自宅を訪ねた。そこには、有島のみならず足助も待っていた。この訪問の際、「愛」について議論になり、その議論から1920(大正9)年の『惜しみなく愛は奪う』という一冊に結実した。また、この訪問から泰雄、足助の二人は回覧雑誌『名づくる日まで』の創刊に参加、創刊同人にはほかに白井喬二、野村愛正、武田比佐等がいた。そして、秋田雨雀、生田長江、沖野岩三郎、有島武郎などを同人に迎え、初心会に発展したのだった。
 1917(大正6)年12月、野村愛正の小説「明けゆく路」が「大阪朝日新聞」の懸賞小説に一等当選。これに触発されて、鳥取からまだ二十歳にならぬ青年であった涌島義博が上京してくる。涌島は長与善郎の書生となった。そして、足助素一は1918(大正7)年に書肆・叢文閣を創業、その記念すべき第一冊目として、有島武郎の『生れ出る悩み』を出版した。その同じ年の11月下旬、橋浦泰雄は白井喬二の推薦によって上野桜木町のペーリン化粧品に入社する。ペーリン社の宣伝部長として迎えられたのであった。上京していた涌島も社員になった。ところが、翌1919(大正8)年には会社の経営基盤がゆるぎ、ぺーリン化粧品をくびになり、足助の叢文閣を手伝うことになった。また、この時期は婿養子として結婚していた、阪田稔子が肺結核のため死去した時期にもあたる。そして、翌1920(大正9)年9月には阪田家を出て、橋浦姓に戻っている。角田健太郎とともに早稲田の清源寺に同居。この年末あたりに橋浦泰雄はわが落合に接近遭遇する。


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駅員3

へ~、知らないことばかりでした[ひらめき]
これから「1」も読ませていただきます。
by 駅員3 (2009-11-03 09:48) 

空楽

いつも訪問くださりありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
                 空楽(父)
by 空楽 (2009-11-03 12:26) 

ナカムラ

駅員3様:コメントありがとうございます。私にとって興味の対象である20-30年代の落合にかかわりのある作家のひとりです。橋浦泰雄は。しかも、北海道やこれから調べますが、当時の熊本人脈との接点になっている可能性もあり、非常に重要な人物だと思っています。ぜひぜひ今後もよろしくお願いします。
by ナカムラ (2009-11-03 19:56) 

ナカムラ

空楽様:コメントありがとうございます。いつも楽しませていただき、なごんでいますよ。
by ナカムラ (2009-11-03 20:16) 

なぎ猫

札幌農学校とは北海道大学の前身?ですかね。
by なぎ猫 (2009-11-03 23:06) 

ナカムラ

なぎ猫様:コメントありがとうございます。札幌農学校は北海道大学の直接の前身です。ちなみに北海道大学の校歌は有島武郎君の作詞です。今の今までDVDで「華の蘭」を見ていました。与謝野晶子が主人公ですが、恋の相手は有島武郎。狂言回しで、大杉栄、伊藤野枝、辻潤、辻まことが登場しました。なんだか感激してしまいました。そして、手元には有島の個人誌「泉」の終刊号がありました。ここには与謝野晶子の挽歌が掲載されていますが、まさに有島への想いがつづられていまして、よみようによっては恋慕の歌にみえます。なるほどなと思いました。
by ナカムラ (2009-11-03 23:51) 

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