橋浦泰雄という日本画家のこと(4) [尾崎翠]

4.有島武郎・大杉栄の死

 1923(大正12)年2月、涌島から文化講演会の講師の依頼があり、有島武郎、秋田雨雀、藤森成吉に相談すると全員が快諾。結果、4月25日夜、有島、秋田とともに鳥取に出発した。これは、水脈社が「水脈自由大学講座」として春・秋の年2回開催の「文化思想講演会」の第一回であった。27日米子、28日松江、29日倉吉、鳥取で開催された。こうして辿ると、橋浦泰雄を核として、北海道・秋田・東京・鳥取が結ばれているのがよくわかる。特に有島との関係は、秋田の『種蒔く人』のグループと鳥取の『壊人』のグループをつなぐ役割をはたしている。重要な役割であったことがわかる。
 ところが、鳥取での講演会の直後の6月、有島は消息を絶ってしまう。波多野秋子との心中である。橋浦は鳥取に向かう東京駅で有島を見送る秋子に会っている。足助の依頼によって橋浦は有島家につめて記者の対応などをした。軽井沢の別荘は当初、立ち回り先の候補とはみなされておらず、発見が遅れてしまったという。足助の叢文閣が発行していた有島の個人雑誌『泉』の終刊号は8月の発行となったが、この終刊号に橋浦は「黒曜の下に」を寄稿している。

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             『泉』1923(大正12)年8月終刊号表紙

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            『泉』1923(大正12)年8月終刊号目次

1923(大正12)年9月、関東大震災が東京を襲った。幸い、中野や落合などの郊外は被害が小さかったが、下町を中心に大きな被害となった。足助の叢文閣はどうにか無事。地震見舞いに多くの関係者が訪れ、事務所ではち合わせることにもなったようだ。橋浦泰雄が会ったのは大杉栄。妻の伊藤野枝とともに虐殺される4~5日前というから9月11日か12日だったのだろう。橋浦・大杉は意気投合した。これから大いに付き合って行こうという矢先の訃報であったようだ。9月27日、足助素一、佐々木孝丸とともに落合火葬場で大杉・野枝の遺体を火葬。1954年9月16日に東中野のモナミで開催された大杉栄の会の参加者の中に橋浦時雄の名前がある。泰雄の弟で、五男。1922(大正11)年7月に堺利彦、山川均とともに日本共産党を結成している。余談であるが、熊本人脈を下落合で形成した作家の小山勝清は堺利彦の書生をしていた時期があり、橋浦時雄との接点があったものと考えられる。小山のところには同郷の橋本憲三が訪れており、橋浦泰雄のところには白井喬二がとなると、1927(昭和2)年の平凡社の『現代大衆文学全集』の企画の際の橋本と白井の二人三脚まで、橋浦兄弟の橋渡しの可能性まで考えてしまったが、おそらくは考えすぎだろう。

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なぎ猫

与謝野晶子の有島さんに向けた歌は恋の歌ですねー。
与謝野晶子はまだまだ女性の地位が低かったころでも、自分の才能を開花したかっこいい女性と思います。
ところで、メールアート、続々と届いていて見ていて楽しいです。で、中の一通に、「あなたのアーティストトレーディングカードを作ってください。」みたいなメッセージが入っていたのだけどどうしよう。
by なぎ猫 (2009-11-05 23:20) 

ナカムラ

なぎ猫様:アーティストトレーディングカードですよね。もし可能ならばぜひチャレンジを。そのうち切手をつくれとか・・ね。そうだ、時間がある(今はちょっと難しい)ときにこの間の仁王+コスモスのヴィジュアルで切手シートを作ってみましょうか。
by ナカムラ (2009-11-06 00:44) 

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