雑誌『火の鳥』  尾崎翠と片山廣子(1) [尾崎翠]

(1)雑誌『火の鳥』と『心の花』

 小説「第七官界彷徨」で独自な世界を描き出した尾崎翠は、1931(昭和6)年9月には雑誌『家庭』に「歩行」を、そして1932(昭和7)年7月に雑誌『火の鳥』に「こほろぎ嬢」を書いた。昭和7年といえば、この年の4月号を最後に長谷川時雨が発行し、初期においては生田花世が新人発掘を担当した雑誌『女人藝術』が廃刊していた。尾崎翠は初期に登場し、小品を提供したが「映畫漫想」を最後に『女人藝術』から離れている。『女人藝術』を離れた作家たちの多くが『火の鳥』に書いている状況をみると、尾崎翠もその流れで『火の鳥』に書くことになったのかな、とも思ったが、当時の編集が尾崎と同郷の栗原潔子であったことを知ると、栗原のひきかなとも思う。

栗原潔子.jpg
『栗原潔子歌集』に書かれた直筆の短歌と署名


 雑誌『火の鳥』は『女人藝術』のライバル誌とみられていたようである。しかし、『女人藝術』が初期においては売れる総合文芸誌をめざし、後半ではプロレタリア文学、労働運動誌の色彩を極端に濃くしたのに対して、一方の『火の鳥』はどちらといえば、まじめな、見方をかえれば地味な作品を同人誌的に紹介する雑誌であった。両者の方向感は違っていたのだ。ただ、女流作家たちが集ったこの二つの雑誌がともに佐佐木信綱が主宰する短歌結社誌『心の花』に関係している点は面白い。『女人藝術』の発行人である長谷川時雨は竹柏会に所属し、『心の花』に短歌を書いていた時期がある。一方、『火の鳥』を創刊した竹島きみ子(渡辺とめ子)も、やはり『心の花』の歌人であり、未亡人となった竹島に雑誌創刊を勧め、資金の援助をしたのも『心の花』の歌人である片山廣子であった。『火の鳥』は1928(昭和3)年10月の創刊である。まさに同年7月に創刊された『女人藝術』の直後の時期の創刊であった。菊判60ページの体裁、創刊号には窪川いね子、やはり『心の花』の五島美代子、林政江、小金井素子らが寄稿している。実は当時の『心の花』の代表女流歌人は下落合との関係がある。九條武子である。九條武子は下落合に住まいした。1927(昭和2)年夏、九條武子は歌集『無憂華』を出版、その出版記念会が開催される。この記念会の発起人に渡辺とめ子は名前を連らねている。そして、片山廣子も出席している。片山廣子であるが、1878年2月10日、東京麻布生まれ。東洋英和を卒業、すぐに『心の花』に所属している。1916(大正5)年には竹柏会出版部から第一歌集『翡翠』(かわせみ)を刊行している。

   月の夜や何とはなしに眺むればわがたましひの羽の音する
   何事も女なればとゆるされてわがままに住む世のひろさかな
   ことわりも教えも知らず恐れなくおもひのままに生きて死なばや
   よろこびかのぞみか我にふと来る翡翠のかろきはばたき
nice!(35)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 35

コメント 2

thisisajin

今回もわたしの知らない世界の話です(わはは)。
ここに遊びに来るといつも己の無知を知らしめられます。
(楽しいのですが♪)
わがたましひの羽の音とルナティックは何か関係ありそうな…
(なさそうな…笑)
by thisisajin (2010-03-13 18:38) 

ナカムラ

thisisajin様:コメントありがとうございます。心の翼はルナテックによって惹起されたものと私も思います。月光はときに狂気を誘うもの。ブログで紹介されていた絵、色彩が素晴らしいですね。実物はマチエールも感じられてもっと素敵でしょう・・・・。
by ナカムラ (2010-03-15 19:01) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。