「地下室アントンの一夜」の世界(4) [尾崎翠]

(4)天上界から地下まで

層雲とは、時として人間の心を侘しくするものだが、それはすこしも層雲の罪ではない。罪は、層雲のひだの中にまで悲哀のたねを発見しようとする人間どもの心の方に在るであろう。

雲ならばまだしも、尾崎は火葬場の煙にまで心惹かれてゆくのだ。

太陽、月、その軌道、雲などからすこし降って火葬場の煙がある。そして、北風。南風。夜になると、火葬場の煙突の背後は、ただちに星につらなつてゐる。あひだに何等ごみごみしたものなく、ただちに星に續いてゐる地球とは、よほど變なところだ。

火葬場の煙を含めて空には以上のようなものがあると尾崎は言う。だが、たしかにあるはずのそれらは決して打つかり合わないともいうのだ。打つかり合うのは、そこに人間が加わるからだと。この言葉にこそ尾崎の核心があるのかもしれない。人間があるところに初めて衝突がおこるのである。その衝突はわずらわしいのかもしれないが、何かを生むものでもある。それが人間が活動する地上界なのである。

地上には、まず僕自身が住んでゐる。

まあ、そうだろう。真理である。詩人の言葉にしては当たり前すぎるくらいだ。人間があまた住む地上界では、その中心にまず自分がある。あらゆる認識の核には自分がある。これだけは変えられない真理であろう。そして認識できる範囲で周囲の状況や空気を感じてゆくのである。

地上は、常に、決して空ほど静かではないやうだ。いろんな物事が絶えず打つかり合つている。

当面、詩人に打つかり合う対象として、動物学者の松木氏が連れてこられ、詩人の詩集と動物学者の研究書とが対比される。地上は人間がたくさんいる分、打つかり合って、複雑に存在している。そして、複雑なるがゆえに、詩が形成されるのだろう。物語として、詩人・土田九作は本来ならば自分が書くべき詩的センテンスを松木氏にとられてしまい、現実的、物理的に(観念としてではなく)松木氏の頭をぽかりと一撃したくなるのだった。現実的な打つかり合いが、ここに描写される。かくも地上界はぶっそうなのだ。

 地下。地下は心理学者と失恋者によって概念化されてゆく。そこには、詩人の魂の跳躍が必要なようだ。「心苦ければ愉しき夢を追ふ」を変形し、「地上苦ければ地下に愉しき夢を追ふ」とした。地下とは何であろう、と自問しながら。

地下室―おお、僕は、心の中で、すばらしい地下室を一つ求めてゐる。うんと爽かな音の扉を持つた一室。僕はすべてを忘れて其處へ降りて行く。むかしアントン・チェホフといふ醫者は、何處かの國の黄昏期に住んでゐて、しかし、何時も微笑してゐたさうだ。僕の地下室の扉は、その醫者の表情に似てゐてほしい。地下室アントン。

そして、尾崎のさまざまな階層が融合している「内面」は、最後には「地下室」に行き着いてしまうのだ。

この室内の一夜には、別に難かしい會話の作法や戀愛心理の法則などはなかつた。何故といへば、人々のすでに解つて居られるとほり、此處は一人の詩人の心によつて築かれた部屋である。私たちは、秘かに信じてゐる――心は限りなく廣い。
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