「地下室アントンの一夜」の世界(5) [尾崎翠]

(5)尾崎翠の内面構造

ここまで、天上・地上・地下という各階層ごとの切口によって尾崎翠の内面を見てきた。ここからは、それぞれに設定された人格とその人格の発言、日記、手記などに書かれた言葉をたどってみたい。まず最初は「精神―科学」領域の心理学者。幸田當八から。

心愉しくして苦がき詩を求め、心苦がければ愉しき夢を追ふ。これ求反性分裂心理なり。

ないものねだりのアンヴィバレンツな心のことだろうか。なぜ人は自分にないものを追うのだろうか。それは対置される詩人も同じことである。詩人・土田九作は詩稿の中で動物学者・松木氏の著作のタイトルに言及する。それはすべて詩句のようなのだ。これは、複雑であるが、「物質―科学」×「精神―文科」という図式となる。つまり4つの異なる因子すべてが関与している世界だと理解できる。だから、このような詩句のような題名になるのだろうか。

桐の花開花期に於ける山羊の食慾狀態
カメレオンの生命に就いて
獏と夢の關聯
マンモス・人間・アミイバ
映畫の發散する動物性を解析す
季節はづれ、木犀の花さく一夜、一罎のおたまじやくしは、一個の心臓にいかなる變化を與へたか

即物的な実証的学問の徒である松木氏のひねり出した著作タイトルが、期せずして詩句になってしまう不思議。現実はときに皮肉、そしてフィクションを超えてしまう。人間の意図や思いを超えてしまう現実が確実に存在するのである。詩人は動物学者のことを以下のように言う。

動物學者は、まるで、一冊の著の標題でもつて、僕の心の境地を言ひ當ててゐるぢやないかと思ふ。僕はとても疑つてゐる、疑へば疑ふほど、あいつは怪物になつてしまふんだ。

そして、詩人・土田九作は冒頭の心理学者・幸田當八の指摘の通り、求反性分裂心理症者であるから、現実を見てしまっては、現実の描写はできず、恋愛をしてしまえば、恋愛について書くこともできないのである。現に土田九作は現実のおたまじゃくしによって詩のおたまじゃくしを創造できなくなってしまう。実物が言語客体化を拒否してしまうのだ。それは、実物が内包しているカオス、つまり「内面」ゆえであろう。カオスにみちた「内面」が作り出した部屋、ロシアの医者であるアントン・チェーホフにちなんだ部屋は程よい広さで、壁は静かな色であったという。

おしまひには地下哲學が出て來て、拳固よりも地下室に逃避した方が幸福だと呟いてゐる。地下室アントンの何と愉快さうな所だ。余もだんだん地下室に惹きつけられてしまつた。出かけて見よう。

「物質―科学」領域である動物学者・松木氏の當用日記の中の記述である。

此處はもう地下室アントンの領分である。土田九作は、踏幅のひろい階段を、一つ一つ、ゆっくりと踏んで降りた。數は十一段であつた。人間とは、自ら非常に哀れな時と、空白なまで心の爽かな時に階段の數を知ってゐる。

地下室アントンには心理学者・幸田當八がいる。そこへ動物学者・松木氏が来る。最後に詩人・土田九作が到着するのであるが、この地下室自身は詩人・土田九作の心によって築かれた部屋なのである。つまり箱としての詩人と中で憩う詩人とがいるのだ。そして全体を作者・尾崎翠が内包しているのだ。これが地下室アントンの構造である。こうして構成要素をみてみると改めて面白い。分裂心理が専門の心理学者+動物学者+医者+詩人=作家という構図なのだ。
  
「僕は、外の風に吹かれて、とても愉快です。いま、僕は、殆んど女の子のことを忘れてゐるくらゐです。心臓が背のびしてゐます。久しぶりに菱形になつたやうだ。幸田氏、それでどうなんです、僕たち三人の形は」
「トライアングルですな。三人のうち、どの二人も組になってゐないトライアングル。土田九作、君は今夜住ゐに歸つて、ふたたび詩人になれると思はないか」  
さつきから思つてゐる。心理醫者と一夜を送ると、やはり、僕の心臓はほぐれてしまつた」 
「さうとは限らないね。此處は地下室アントン。その爽かな一夜なんだ」

この小説を最後に尾崎翠は小説の世界に帰ってこなかった。だが、閉塞した時代の中にあって、あえて表現しないことを選択したように私には見えている。そのぎりぎりの状況の中でのカオスをこの作品から感じる。「爽かな一夜なんだ」が最後の一行であったことに私は救われた思いがした。

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張 繭子

はじめまして。張 繭子と申します。
名前でピンと来られたかと思いますが、張 知子の娘でございます。

ブログの方、拝見させて戴きました。
中村さんのされていらっしゃる、メールアートという物に関心があり、大変興味深く読ませていただきました。

中村さんのブログを読んで、創作意欲が沸き、
詰まっていたCD COVERデザインの仕事を進める事ができました。
一言お礼をお伝えしたく、コメントさせていただいた次第です。
言葉の力は、やはりすごいですね。

こちらに、私の作品のURLも載せさせていただきます。
もし、お時間がありましたら、ご高覧いただけると幸いです。
(半分、under constructionですが)
mayukohari.com

今後も、ブログの方引き続き拝見させていただきます。

ありがとうございました。
by 張 繭子 (2010-03-23 01:20) 

ナカムラ

張 繭子様:コメントありがとうございました。繭子さんとはたった一度、銀座のギャラリーでお会いしています。繭子さんが1歳になっていないときに。

なのでなんだか感動しています。お母様には学生時代に札幌でとてもお世話になりました。これからも宜しくお願いします。
by ナカムラ (2010-03-23 12:25) 

繭子

中村様、
そうだったんですね!お会いしてたんですね!
はじめましてではなく、大変ご無沙汰しております、ですね。
失礼致しました。

一歳にも満たない赤ん坊を
銀座の画廊に連れて行く母も母ですね(笑)

こちらこそ、これからもよろしくお願い致します。
by 繭子 (2010-03-24 10:25) 

chako

大変読み応えがあるので、今日もまとめて読ませて頂きました。
最後の一行、そうなんですね。これで救われるんですね。
by chako (2010-03-26 12:07) 

ナカムラ

chako様:コメントありがとうございます。私は救われた思いがしました。
故郷に連れて帰られた尾崎翠は悔しかったかもしれませんが・・・。
by ナカムラ (2010-03-26 12:35) 

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