落合山川・林と翠(2) [尾崎翠]

上落合に居を構えた尾崎翠

東中野の駅まで私の足で十五分であり、西武線中井の駅までは四分位の地点で、ここも、妙法寺の境内に居た時のように、落合の火葬場の煙突がすぐ背後に見えて、雨の日なんぞは、きな臭い人を焼く匂いが流れて来た。

この文章にある尾崎が紹介したことによる林の引越しは1930(昭和5)年5月のことであった。この年の7月には『放浪記』が改造社の新鋭文学叢書の一冊として刊行され、ベストセラーになるのであるが、その直前のことになる。この850番地の家は1927(昭和2)年4月に死ぬか生きるかの瀬戸際にいたるほどの大病を患った親友の松下文子を看病するために同居できる借家を探した尾崎翠が居を構えた場所であったのだ。二人の同居は1928(昭和3)年6月の松下文子の結婚まで続いた。そして松下の結婚を機に、尾崎はすぐそばの842番地の家の二階に越したのであった。松下文子と同居した850番地の家には、尾崎を慕って杉並の林芙美子が訪れて来ていた。まさにこの時期、林はのちに『放浪記』となる原稿を書き上げていたのである。
 ではなぜ尾崎翠は、この上落合に居を構えたのだろうか。これには同郷の文学者、涌島義博と田中古代子夫妻が大きく関与しているようだ。この時期、二人は上落合に住んでいたようなのだ。未だ私はその証拠となる文献を見つけていないが、そう考えると尾崎が紹介されて落合に住むのは自然な成り行きだと考える。涌島はやはり同郷の橋浦泰雄を頼って上京しており、橋浦のつながりから足助素一の叢文閣で出版を学んでいる。そして南宋書院を立ち上げているのだ。橋浦も1920(大正9)年に早稲田から落合の隣町である上高田の宝泉寺に越してきており、上落合を通って涌島も橋浦のところへ何度も来ている。従い、再度の上京にあたり上落合に居を構えたとすれば、すでに知っている場所であったからであったのかもしれない。涌島と古代子と尾崎の3人は鳥取で雑誌『水脈』でともに執筆した同人であった時期がある。この水脈社では有島武郎や橋浦泰雄を招いての講演会を開催したりもしている。この実現には橋浦と涌島との親しい関係が大きかったのだろう。
1926(大正15)年に東京で組織された鳥取県無産県人会は、まさに橋浦や涌島が中心となって結成したが、涌島の誘いがあってのことだろう、尾崎翠も参加している。

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