落合山川・林と翠(3) [尾崎翠]

『女人藝術』へのデビュー

この会でも重要な出会いがあった。それは、鳥取県人である生田春月、鳥取県人ではないが出
席していた妻の生田花世である。詩の雑誌での尾崎の登場をみると生田春月の推薦を感じさせるし、なにより生田花世は長谷川時雨が創刊した雑誌『女人藝術』初期の印刷者で、新人発掘の担当であったようだ。1928(昭和3)年、金融恐慌が収まらず企業の倒産が相次ぎ、労働運動が激しくなり、大きなメーデー集会が組織され、逆に特別高等警察を中心とした官憲による弾圧の嵐の中で全日本無産者藝術連盟(ナップ)が設立されるなど激しい世相のなか、7月に広く女性作家を結集して『女人藝術』は創刊された。はやくも創刊2号になる八月号に林芙美子は登場する。林は長谷川時雨の夫で、『女人藝術』のスポンサーである三上於菟吉の推薦によって書き始める。八月号では詩「黍畑」を寄せている。

  あゝ二十五の女心の痛みかな!
  細々と海の色透きて見ゆる
  黍畑に立ちたり二十五の女は
  玉蜀黍よ玉蜀黍!
  かくばかり胸の痛むかな
  廿五の女は海を眺めて
  只呆然となり果てぬ。

「黍畑」の冒頭である。雑誌では長谷川春子の挿絵とともに掲載されている。さすがに三上於菟吉が読売新聞の友人のところにあった原稿を読んで、時雨に推薦した才能だから『女人藝術』内でも特別扱いであったのだろう。もちろん、この段階での林芙美子は一冊の著書もなく、当然売れてもいない。その才能を見出した三上於菟吉の眼もさすがである。そして、十月号から「放浪記」の連載が始まった。その初回は「秋が來たんだ」という題であり、まだ「放浪記」という題は冠されていない。「放浪記」の題が登場するのは、十二月号からで、「一人旅(放浪記)」と目次に表記された。そして、尾崎翠が『女人藝術』に登場するのは1928(昭和3)年十一月号においてである。「匂ひ」という短編であるが、「嗜好帳の二三ペエヂ」と副題が添えられている、この登場作の大胆な、そして断片的な構成に私は驚かされる。

これは匂ひで、林檎そのものではありません。匂ひは林檎が舌を縛るほど鼻を縛りません。だから私の舌の上の林檎より、鼻孔のあたりを散歩してゐる林檎の方が好きです。

ゲエテ閣下。
お靴の紐を結ばせていただきます。メフイストの健康のために。

この出だしの鮮しさは何だろう。そしてゲエテ閣下への呼びかけの次は「チエホフ小父さん。」である。この呼びかけは最後の尾崎の小説である「地下室アントンの一夜」における呼びかけを思い出させる。

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コメント 4

ぼんぼちぼちぼち

「女人芸術」そのネーミングに ものすごく時代を感じやすね。

by ぼんぼちぼちぼち (2010-07-13 20:03) 

アヨアン・イゴカー

>これは匂ひで、林檎そのものではありません
>ゲエテ閣下。
お靴の紐を結ばせていただきます

私はこういう感性は好きです。
by アヨアン・イゴカー (2010-07-14 00:06) 

ナカムラ

ぼんぼちぼちぼち様:コメントありがとうございます。そうなんです。長谷川時雨のネーミングでしょうか。

この時代、佐々木信綱の「心の花」の存在が大きく、長谷川時雨も「火の鳥」の渡辺とめ子も、片山廣子も村岡花子も「心の花」門下です。

後半はプロレタリア文学雑誌のようになりますが、前半はバランスよく女流を結集しています。
by ナカムラ (2010-07-14 12:07) 

ナカムラ

アヨアン・イゴカー様:コメントありがとうございます。1920年代の表現とは思えないような表現だと思うんです。

尾崎翠おそるべしと思っています。
by ナカムラ (2010-07-14 12:21) 

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