落合山川・林と翠(6) [尾崎翠]

『蒼馬を見たり』の出版

たとえば、『苦楽』や『女性』といった雑誌を発行したプラトン社は1928(昭和3)年5月に金融恐慌のあおりを受けて倒産している。大手の出版社が円本による景気にわいていた一方、大量生産、大量販売ができない中堅以下の出版社は苦しかったに違いない。南宋書院も当然例外ではない。そんな時期にもかかわらず林のこの一冊を出版したのである。自費出版といわれているが、松下文子が林芙美子に貸した(返していないと思うけれど)金額を考えると南宋書院も一定の負担があったと思う。感覚的には費用折半による出版ではなかったろうかと思う。お金を寄付したことになっている松下文子であるが、すでに結婚しており、尾崎と同居していないから、これも尾崎経由でお願いしたのだろうか。松下の故郷に帰るための費用を借り受けたようである。この出版の記念会を白山の南天堂書店2階のレストランで行っており、序文を書いた辻潤の挨拶のことなどがエピソードとして語られることが多いが、この場に尾崎や松下は呼ばれていたのだろうか。ところで、雑誌『女人藝術』は長谷川時雨の夫である三上於菟吉が円本によって得たお金の一部を時雨に渡した元手から始まった。三上が取り上げられた円本の代表は平凡社の『現代大衆文学全集』であろう。全60巻のうち3巻が三上の作品集である。この企画は落合に住んでいた橋本憲三が平凡社で進めたものであり、白井喬二が全面協力している。橋本憲三は初期の『女人藝術』にも寄稿している高群逸枝の夫である。ふたたび林芙美子の「落合町山川記」に戻ろう。

まず引越しをして来ると、庭の雑草をむしり、垣根をとり払って鳳仙花や雁来紅などを植えた。庭が川でつきてしまうところに大きな榎があるので、その下が薄い日蔭になりなかなか趣があった。私は障子を張るのが下手なので、十六枚の障子を全部尾崎女史にまかせてしまって、私は大きな声で、自分の作品を尾崎女史に読んで聞いて貰ったのを覚えている。尾崎さんは鳥取の産で、海国的な寂しい声を出す人であった。私よりも十年もの先輩で、三輪の家から目と鼻のところに、草原の見える二階を借りてつつましく一人で住んでいた。この尾崎女史は、誰よりも早く私の書くものを愛してくれて、私の詩などを時々暗誦してくれては、心を熱くしてくれたものであった。
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アヨアン・イゴカー

>誰よりも早く私の書くものを愛してくれて、私の詩などを時々暗誦してくれては、心を熱くしてくれたものであった
私にもこのような友人がいましたが、残念ながら鬱病のために十二年以上も連絡ができないままです。彼と会う時間がもっとあれば・・・残念なことですが、それも宿命でしょう。
by アヨアン・イゴカー (2010-07-17 14:45) 

ナカムラ

アヨアン・イゴカー様:コメントありがとうございます。そうでしたか、残念ですね、それは。私にもいたように思いますが、当方の不義理のほうが・・・。

二人の関係も実は微妙なものになってゆきます。才能は相手の才能の大きさにも気付くもの。難しいですね。
by ナカムラ (2010-07-18 10:16) 

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