落合山川・林と翠(8) [尾崎翠]

あえて沈黙を守った翠

鳥取へ帰った尾崎さんからは勉強しながら静養していると云う音信があった。実にまれな才能を持っているひとが、鳥取の海辺に引っこんで行ったのを私は淋しく考えるのである。  時々、かつて尾崎さんが二階借りしていた家の前を通るのだが、朽ちかけた、物干しのある部屋で、尾崎さんは私よりも古く落合に住んでいて、桐や栗や桃などの風景に愛撫されながら、『第七官界彷徨』と云う実に素晴らしい小説を書いた。文壇と云うものに孤独であり、遅筆で病身なので、この『第七官界彷徨』が素晴らしいものでありながら、地味に終ってしまった、年配もかなりな方なので一方の損かも知れないが、この『第七官界彷徨』と云う作品には、どのような女流作家も及びもつかない巧者なものがあった。私は落合川に架したみなかばしと云うのを渡って、私や尾崎さんの住んでいた小区へ来ると、この地味な作家を憶い出すのだ。いい作品と云うものは一度読めば恋よりも憶い出が苦しい。

『第七官界彷徨』が発表されたのは1931(昭和6)年の事だから、尾崎はまだ35歳である。「年配もかなりな方なので一方の損」とは、よくしてもらった林の言葉とは思えない。それでも全体には好意的ではあるのだが、「地味に終ってしまった」と過去形で語るとはどういう料簡だろうか。林芙美子が描いた落合のこと、そして明らかに落合への愛着が語られたこの文章を読む時、いい作品だなと思うのだけれど、一方で林が「地味に終ってしまった」と評した尾崎翠の過去と変わらぬ鮮しさを感じる時、逆に時代ともに生きることができた林芙美子が古びてしまっていることに気がつくのも事実である。故郷に戻った尾崎翠は療養によって早くに回復していたと聞く。ならば、尾崎が書かなかったのは、書けなかったからではないだろう。書き続けた林が1937(昭和12)年12月の南京陥落の際に毎日新聞の特派員として現地に入り、戦時中には世相とはいえ従軍作家として中国や南方に赴いた勇ましい姿をみると、あえて沈黙を守った尾崎翠の「意思」に私は軍配を上げてしまうのである。落合を落合の良さのままに見事に描いた林と落合の風景を心象世界として抽象化し普遍性をもたせた尾崎翠との大きな差を感じる。最後に尾崎の1930(昭和5)年の『詩神』5月号の座談会での発言を引用して終りたい。

日本の作家はもうすこし手法や文章への触覚の発達した詩人にならなければいけないと思ふ。いま頭と心臓といふことが非常に問題になるのです。心臓の世界を一度頭に持って来て、頭で濾過した心臓を披露するといふやうなものを欲しいのです。

落合の山川の緑が翠の帰郷とともに失われたという林の記述を読みながら、その偶然を実に不思議であると思った。と同時に翠の新鮮な感動を伴う文章が古びないことも実に不思議なことに思ったのであった。
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ChinchikoPapa

nice!をたくさん付けたいですね!ww
ステキな論文でした。
by ChinchikoPapa (2010-07-20 12:07) 

ナカムラ

ChinchikoPapa様:コメントとたくさんのnice!をありがとうございました。樺山千代が落合火葬場近くのクリーニング屋さんに住んでいたということで調べていますが、どこなのか・・・・まさか戸塚クリーニングじゃないだろうし・・・松下文子が質入した質屋に記録はないだろうかと思ったりするこのごろです。

中村ツネアトリエは本当によかったですね。
by ナカムラ (2010-07-20 12:30) 

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