「第七官界への引鉄」板垣直子と一冊の本 (6) [尾崎翠]

『文藝ノート』での尾崎翠の評価

 『文藝ノート』に収録された「女流文壇」は1931(昭和6)年「文学」9月号(岩波)に掲載されたもの。時期は「第七官界彷徨」の「新興藝術研究2」掲載の直後である。とりあげている作家たちは、中條百合子、宇野千代、さゝきふさ、尾崎翠、林芙美子、平林たい子、窪川いね子。尾崎翠にふれている部分を引用したい。

大多數の作家が、作家的技量の優秀さよりも、自己の文學の旗標によつて、より多く文壇に地歩を占めてゐるかに見える現代の文壇に、最近尾崎翠が、ユーモア文學によつて第二次的進出を企てた事は、極めて有利な方法であった。
彼女は以前に、「無風帯から」その他を「新潮」に發表して、相當の注目を惹いた。然るに私的運命は彼女を大切な時期に文壇から遠ざけた。彼女は必然的に、文壇の外に再び試作時代を持つた。彼女が自己の境地を、ナンセンス的ユーモア文學にあることを悟つたのは、其後であつた。
「第七官界彷徨」は、現文壇への顕著な寄興であり、日本のユーモア文學の最大収穫の一つに數へられる作品である。これ程細やかに練りあげられた、朗らかなユーモア文學を、私は日本に於て他に知らない。

更にあの長い作品が、全然ナンセンスの上に築かれてゐる事、しかも異様なる分裂心理などを持つて來た事は全くユニークである。

彼女のユーモアは、人生に對する彼女の態度から生まれてゐるのではなく、ユーモアの爲のユーモア文學である。「正常心理の世界に倦きた」が、時代問題に切り込んでゆく趣味を彼女は持たない。事を執念深く追及してゆくねばり強さと、言葉の使用に就いての作家的な敏感さが、孤獨な彼女をユーモア文學に導いたのではなからふか。

小林多喜二文学を絶賛し、プロレタリア文学の理解者である板垣直子が評価してきたのは、平林たい子のような理知的なプロレタリア文学であり、窪川いね子、中條百合子である。尾崎翠作品の絶賛はかえって異質なものに見える。その答えは以下の直子の言葉に象徴されているように思う。
  
彼女がユーモア文學に道を求めた性格的必然性であるが、かゝる無慾な、澄んだ、朗らかなユーモア文學が、時代的傾向に彩られた各種の作家の對立してゐる落付のない轉換期の現文壇に、その反動として生れて來る社會的根據のある事も見のがしてはならない。

「火の鳥」には巻末に書評が同人によって書かれるコラムがある。1933(昭和8)年10月1日発行の第七巻10月号には『第七官界彷徨』を割り当てられた栗原潔子による紹介が掲載される。だが、持ち回りで啓松堂発行のこのシリーズの紹介を書いているから、特に栗原潔子が尾崎を選んで、とは私には思えない。紹介は『文藝ノート』や『白い貝殻』、『わたしの落書』も取り上げられているのだ。栗原潔子は「一時健康を害されたときく著者のご自愛を切に祈る。」と結んでいる。

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アヨアン・イゴカー

>朗らかなユーモア文學
書き手のユーモアの定義が知りたいと思います。
私にとってはこの作品はユーモア文学ではなく、浪漫的であり、象徴主義的であり、詩的な文学です。描写には一定の諧謔を見ることもできますが。
by アヨアン・イゴカー (2010-08-03 00:30) 

ナカムラ

アヨアン・イゴカー様:コメントありがとうございます。ある意味、同感です。私もユーモア文学?と思いました。

尾崎翠は表現主義に関心が深かったようです。また「第七官界彷徨」は映画台本のように筋書きとして書かれたふしもあります。


by ナカムラ (2010-08-03 00:43) 

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