鳥取と東京・落合の風景と(1) [尾崎翠]

1.東京・落合を歩く

 2010年の夏、私は初めて鳥取に向かっていた。仕事や旅行などで日本全国をかなり歩いた私にとって足を踏み入れていない二つの県の一つが鳥取県であった。ちなみに最後に残った一県は鹿児島県である。7月3日から4日の二日間、鳥取市において「尾崎翠フォーラムin鳥取2010」が開催され、参加するために鳥取を訪れたのである。
 私が新宿区上落合に越してきたのは1995年のこと。当時は尾崎翠が「第七官界彷徨」をはじめとする小説を書いた土地とは知らなかった。林芙美子と同様、杉並区の妙法寺のそばから私は越してきたのであった。落合を歩くようになったきっかけは西落合に住んでいた瀧口修造の住居跡がどうなっているか確かめるため訪問したことに始まった。そして、次に村山知義の三角のアトリエの家の跡地を確かめるために歩いた。この訪問では、村山知義の妻である童話作家の籌子に興味をもつことにつながり、雑誌「女人藝術」に村山籌子の原稿をあたった。ところが、そこには尾崎翠の短編や「映画漫想」も掲載されていた。そして、改めて学生時代に読んでいた尾崎翠を雑誌掲載のかたちで再読することになったのだった。しかも今回は落合に住んだ作家として。同時に尾崎翠が住んだ1928(昭和2)年から1932(昭和7)年にかけての落合地域はどんなだったのだろうか、と想像しながら落合を歩くことにもつながった。
 落合地域は台地上の下落合と崖下の上落合によって構成されているが、関東大震災まではかなりの田舎だったようだ。鳥取出身の画家、橋浦泰雄の自叙伝『五塵録』(1982年 創樹社)には1920(大正9)年の暮れ、早稲田から上高田の宝泉寺に越してくる時の様子が描写されている。この時の記憶をもとに橋浦は上落合の風景として自叙伝中に描いている。当時の上落合の様子を知る良い資料の一つである。

1920年(大正九年)ごろには、早稲田から山手線の高田馬場までは。畑地をまじえながらもどうにか人家つづきだったけれど、線路を越すと一面が畑地で、人家はいわゆる村の形をとって、少家ずつが街道筋にあった。

橋を渡ると古い面影を残した落合村で、藁屋根の棟にイチハツを植えた家が多かった。

この村は“落合の枝柿”といって枝柿の名所だったが、通りを笹竹で囲った農家の大 きな敷地内に、百年、二百年を経たであろう枝柿の老木が二十本も三十本も、家の棟よりも高く、黒い枝を拳のように振りまわして真っ赤な実をつけているのは偉観だった。そんな農家が何軒もあった。

実は上高田は中野区であるが、上落合と隣接しており、落合火葬場のすぐ先である。たとえば後に尾崎翠が住んだ三輪から歩いて10分とはかからない距離である。

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コメント 2

アヨアン・イゴカー

>黒い枝を拳のように振りまわして真っ赤な実をつけているのは
巧みな表現ですね。
by アヨアン・イゴカー (2011-04-23 08:40) 

ナカムラ

アヨアン・イゴカー様:そうですね。橋浦さんは本業が日本画家なので、描写がうまいのかも。不思議な人で、有島武郎に気にいられ、柳田國男の直の弟子として信頼され、ナップの初代中央委員長であり、中野生活共同組合の創設者です。もっと取り上げられるべき存在だと思うのですが。
by ナカムラ (2011-04-23 11:52) 

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