鳥取と東京・落合の風景と(3) [尾崎翠]

3.尾崎翠が落合に住んだ理由

 今回、鳥取に伺ったことで知りえた最大の収穫は涌島義博と田中古代子夫妻の上落合における住所地が確認できたことであった。フォーラム開催の時期を中心にした6月26日から7月25日までの期間、鳥取県立図書館において「特別資料展 尾崎翠―迷宮への旅―」が開催された。この展示は新発見資料を含めて素晴らしいものだったが、中に「鳥取無産県人會々報」の第一號が展示されていた。そこには會員氏名と住所を記載した名簿があった。

  涌島義博    市外上落合五四六  文筆業
  涌島古代子   市外上落合五四六  
  尾崎みどり   市外上落合     著述業

この會報は1926(大正15)年2月23日に印刷されている。橋浦泰雄と行動をともにし、足助素一の叢文閣で出版を学んだ涌島義博が上落合に住んでいた。これは橋浦泰雄が上高田に住んでいたことと大いに関係しているものと考える。なにせ通り道にあたる地域なのだ。また前述したように震災以後には住みやすい郊外地でもあったからだろう。尾崎みどりも上落合を住所地にしているが、この時期の尾崎の状況を考えると涌島の名義を借りたのだろうと思う。涌島は南宋書院をおこし、左翼系出版社として活動するが、鳥取無産県人會のつながりもあってか白井喬二の作品も出版している。のちに林芙美子の処女詩集『蒼馬を見たり』を出版している。これは尾崎翠の口利きなのだろう。これによって東京での文筆生活を始めるにあたって、尾崎翠が上落合に居を構えた理由がわかったと感じた。

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