霧のポジ、太陽のネガ<一原有徳さんを偲んで>(2) [アート]

2.一原有徳作品との出会い

 私は78年から82年の4年間、大学生として札幌に暮した。当時の私は中学生のときから始めた登山と高校生のころから書き始めた短歌に夢中であり、大学のサークルは山登り系サークル、短歌では大学の教師であり、俳人として活躍されていた近藤潤一教授の紹介で、北海学園の教授で歌論家の菱川善夫さんと出会って指導を受けていた。そして、菱川さんが主催していた現代短歌・北の会の若手歌人たちとともに同人誌『陰画誌』に短歌を発表していた。同人ではなかったが、菱川さんが講師を務めていたカルチャー教室の生徒にSさん、Kさんがいて、私たち同人の集まりに参加していた。そのSさんが友人を介して歌人の福島泰樹さんを札幌に招待、3日間ほどずっと行動をともにしたことがあった。79年のはじめのことだった。その時、Sさんが我々一行を案内した場所のひとつがNDA画廊であった。NDA画廊は時計台の北側にあった道特会館という石造の古い建物の1階にあった真紅のドアをもつギャラリーだった。実は伺う直前まで近くのレストランで朝食兼昼食を食べていたのだが、そんな時間にも係らず酒好きな福島さんはワインを注文し、周りにも飲ませたために皆顔を赤くしてギャラリーに行くはめになっていた。ギャラリー室内に入ると暖かく、その中心にはストーブが燃えていた。壁面には山本容子さんの銅版画がかかっていた。「アスパラガス・ガイ」「アスパラバス・パラダイス」「トゥ・ザ・パーク」など初期の代表作が並んでいた。だがSさんが見せようとした絵は山本容子さんのものではなかった。一つはリトアニア出身でポーランド在住の画家スタシス・エイドリゲビチウスの蔵書票、そしてもう一つは北海道の版画家・一原有徳さんのモノタイプ版画であった。ギャラリーの女性が版画ケースから出して見せてくれた一原さんのモノタイプは私には衝撃的であった。そこには見たこともない金属的なイメージの連続があり、これを抽象と呼んでしまっていいのか、私にはわからなかった。モノタイプは版画とはいっても製版していないので1枚しか刷れない。つまりは版をつかって反転はさせるが、複数性は排除してしまっている表現形態なのであった。そのイメージの鮮烈さに目を奪われた。まるで、何かの結晶の顕微鏡写真を見ているようだった。私は魅了された。こうした絵画表現を見たことがなかったこともあって、まさに目から鱗が落ちるような体験であった。
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