竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(1) [竹中英太郎]

1.東京熊本人村の竹中英太郎

 挿絵画家である竹中英太郎のデビュー当時、つまり下落合に居住していた時期を中心に今まで調べてきたし、文章も書いてきた。『新青年』への登場以降は多くの研究者もいるし、今さらと思い、あまり調べていなかった。だが、竹中英太郎自身が書いている横溝正史との出会い、そして突然の「陰獣」への挿絵依頼は真実であったのか、それ自体を疑ってかかる必要を感じる事実をみつけたので、今後の調査への私自身のモチベーションとするとともに、今号では論証を目的としない、やや荒唐無稽な疑問や想像を書いてみようと思う。従い、これが真実であるとの裏をとっていない、事実以外のことを沢山含んだ文章になることを事前にお断りしておきたく思う。

①不思議な人間模様とそのつながり
 竹中英太郎を調べていると不思議な人間関係が見え隠れする。その一つが熊本出身者人脈であり、下落合での住まいは「東京熊本人村」と呼ばれ、村長格の作家・小山勝清を中心に詩人の高群逸枝、橋本憲三夫婦、竹中の家には脚本家の美濃部長行が居候した。5人そろっていたのは、1925(大正14)年秋から1926(大正15)年にかけての1年弱の期間であった。
 竹中英太郎の挿絵画家としてのデビューは協調会が発行していた労働雑誌『人と人』1925(大正14)年3月号である。また、それ以前の1922(大正11)年9月号には懸賞小説に応募し、選外佳作に選ばれている。『人と人』は労働関係雑誌であり、15歳の竹中が読むのは早すぎるのではと思うが、それが事実である。この雑誌には熊本で竹中が世話になる作家の田代倫や下落合で世話になる小山勝清が執筆していた。協調会は徳川家達が会長、澁澤榮一、床次竹二郎が副会長を務める労使協調をめざす団体であるが、内務省の外郭団体、かつ政友会の息がかかっていたようだ。床次は1919(大正8)年には関東の博徒、右翼、軍部(田中義一大将が後援している)が作った大日本国粋会の世話役にもなっており、不思議な人物だ。これに対抗したのが民政党をバックにした大和民労会であり、その中心は河合徳三郎であった。土建業のボスであるが、河合映画を作り、それが大都映画になった。ちなみに竹中英太郎を雑誌『新青年』の編集長、横溝正史に紹介した白井喬二も参加している鳥取無産県人會の設立総会は1926(大正15)年1月24日に協調会館において開催された。この会の中心は日本画家の橋浦泰雄、社会主義者の橋浦時雄、涌島義博の三人であるが、白井喬二、生田長江、生田春月、尾崎翠などが会員である。
 東京熊本人村の小山勝清は堺利彦の書生だったので、橋浦時雄とは近かっただろうし、柳田國男を通じて橋浦泰雄とも知り合いだったであろう。高群逸枝は生田長江の推薦で執筆の機会を得ていた。夫の橋本憲三は平凡社の社員であった時期に『現代大衆文学全集』において白井喬二の協力を得て、この企画を具体化してゆく。そしていくつかの巻に竹中英太郎は挿絵を描くことになる。三上於菟吉はこの全集の印税を妻の長谷川時雨に渡し、その資金によって雑誌『女人藝術』は復活創刊を迎えるのである。この雑誌刊行には生田春月の妻の花世が深く関わり、尾崎翠も作品発表の場にしてゆく。プラトン社の雑誌『苦楽』には三上於菟吉も長谷川時雨も執筆していた。仲の良かった直木三十五が編集長をしていたからである。そのあとを川口松太郎が継ぎ、三代目編集長がこれも熊本で育った西口紫溟で、竹中英太郎を『クラク』(『苦楽』を改題)の挿絵画家として採用する。探偵小説の挿絵にどうかと進言したのは専属図案家の山名文夫であった。三上於菟吉のところには1924(大正13)年の暮れ近くに竹中と筑豊で別れた小山寛二が弟子入りする。そして大衆文学作家となって竹中の前に現れる。かつては浅原健三の働きかけにより筑豊炭鉱にオルグのために潜入したふたりであったが短期で挫折しての上京であった。

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