竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(2) [竹中英太郎]

2.下落合での竹中英太郎とその人脈

 小山勝清の下落合の家には左翼以外の人物もよく訪れている。たとえば辻潤である。1924(大正13)年の小島キヨの日記には中野の吉行エイスケの家から出発して夫である辻潤と小山の家を訪ねたことが記述されている。また意外な人物では北一輝がいる。特高警察の監視、尾行がつくような小山のところに北は訪問していた。ちなみに北一輝の佐渡時代の先生に函館新聞の長谷川淑夫がいる。長谷川淑夫の長男・海太郎は一時、大杉栄に心酔したが北一輝と大杉栄もお互いを理解しあっていたふしがある。大杉栄への私淑といえば浅原健三も同様であった。浅原は後に仙台の歩兵連隊長であった石原莞爾と会うことになる。一方、長谷川淑夫は大川周明に共鳴するが、大川は北と決別し、『月刊日本』の行地社は軍部に近づくことになる。石原莞爾、土肥原賢治、東條英樹などが誌友になった。大川は満州建国を訴えてゆくことになる。
 プラトン社が金融恐慌のあおりを受けて倒産したのは1928(昭和3)年5月頭の事。雑誌は5月1日発行の5月号までしか出なかった。竹中英太郎はすでに下落合からは引越してはいるが、かつてご近所だった同郷人、橋本憲三に相談する。橋本は『現代大衆文学全集』での盟友・白井喬二に相談した。そこで白井は雑誌『新青年』の編集長である横溝正史への紹介状を書いた。この紹介状を持参して編集部を訪問したのは5月初旬のことだったろう。竹中は横溝によって採用されている。この夏には江戸川乱歩の「陰獣」への挿絵による成功が待っていた。
 もう一つの竹中英太郎のつながり。それはアナーキスト、共産主義者たちとの直接的な行動である。雑誌『左翼藝術』は1928(昭和3)年5月5日の創刊にして終刊号であるが、竹中は表紙を描き、風刺漫画を描き、短文を書いている。この雑誌には壷井繁治や三好十郎、上田進、高見順などが参加しているのだ。メンバーの中で、特に壷井繁治はナップの中心人物の一人として上落合に転居して来、雑誌『戦旗』の後期編集長となる。戦前の竹中英太郎を見ると、十代で熊本、福岡にいた時代には左翼的な活動を行うが、東京で表だって左翼的な活動を行ったのは『左翼藝術』への参加だけのように見える。最初期、挿絵を描いたのは『人と人』という労働雑誌であった。しかし、それ以後の挿絵を描いた雑誌をみても、左翼的なスタンスは見えない。それだけに『左翼藝術』への参加は唐突に感じられる。いったん、『人と人』『家の光』『クラク』の挿絵を描き、プロの挿絵画家として認められたばかりの時期でもあった。これは何を意味するのだろうか。壷井繁治のようにナップへの参加は形跡すらない。ナップでは鳥取出身の日本画家・橋浦泰雄が初代の中央委員長としてがんばっていた。小林多喜二も村山知義も中野重治も治安維持法違反の容疑で検挙、拘束されていた。妻と幼子を抱えて生活の糧を得ながら、表立ってはそぶりも見せないが、裏側では何らかの活動を行っていた可能性はないのだろうか。

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SILENT

プラトン社の時代の直木三十五には興味があります
芥川龍之介と三十五との長崎の話も興味深いのですが
by SILENT (2011-05-09 17:24) 

ナカムラ

SILENT様:コメントありがとうございます。プラトン時代の直木、三上於菟吉と出版社をやっていた頃の話は興味がつきません。直木が編集長だった時代の雑誌『苦楽』は面白く、なかなか手に入らないものになってしまいました。私の上司だった方の実家が長崎なんですが、芥川を居候させていた時期があったとのことでした。
by ナカムラ (2011-05-09 19:10) 

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