竹中英太郎周辺の人間関係と疑問など(5) [竹中英太郎]

5.竹中英太郎の一貫性

 ところで、私は二・二六事件でなぜ竹中英太郎が関係者として連行、拘置されたのかがわからない。北一輝との関連だろうか、それとも決起軍人とのつながりがあったのだろうか。二・二六事件は1936(昭和11)年におきた。裏には陸軍の統制派と皇道派の争いがあった。また一方では、金融恐慌、世界恐慌、農村不況が連続して日本を襲い、不景気によって完全に疲弊した農村と地方を救うべく無策の政府を倒すことによって、正そうとした純粋な正義意識もあった(もちろん、その行動は正しくない)。そうした下士官層の意識を利用した者があったのかもしれない。戒厳令が発布され、情報統制が敷かれた。一般市民は何が起きているのかわからなかったという。戒厳司令部参謀として制圧の指揮をとったのは参謀本部作戦課長であった石原莞爾であった。統制派に属さぬ石原ですら何度か銃をつきつけられたようだ。首謀者の一人として軍人ではない北一輝が検挙、処刑されたが、北は本当に首謀者の一人だったのだろうか。よくはわからないまま死刑執行されてしまった。前述したように軍部と右翼思想家の関係では大川周明に軍はよっており、北との対立があった。竹中英太郎も事件関係者として取り調べられている。そして、これも不思議なことであるが釈放されると妻子を残して単身満州に発ってしまうのだ。これは何を意味するのだろうか。1937(昭和12)年、日中戦争が始まってしまう。その時、石原は参謀本部作戦部長であった。一方、竹中英太郎は月刊満州社の東京支社長として月刊満州日本版を刊行するかたわら何らかの活動を行っていたという。証拠があるはずもないし、竹中英太郎も浅原健三も何も残していないが、浅原の軍内部からの社会主義化、戦争回避の工作を満州を中心として行っていたのではないか、と私は考えている。そして、浅原にとっての陸軍内部の最大の協力者が石原莞爾だったのではないだろうか。昭和12年9月、日中戦争前線の武藤章参謀と対立した石原は参謀本部から左遷され、関東軍参謀副長となる。関東軍参謀長が東條英樹、その右腕が甘粕正彦でなければ、何らか別の道があったかもしれないと考えてしまうのは私だけだろうか。妥協できない石原は東條と真正面から対立してしまった。翌1938(昭和13)年、石原莞爾は参謀副長を罷免される。関東軍内部で東條英樹の統制派に満州独立をめざす石原・浅原ラインが敗れたのだった。この結果、浅原健三には治安維持法違反嫌疑がかかり、逮捕される。しかし、なぜか起訴はされなかった。板垣征四郎にまで類が及ぶ可能性があって追及しなかったとも言われている。浅原は非公式に国外追放になり、上海に行く。不思議なことだが上海で浅原健三は大金持ちになっている。これはどういうことだろうか。おそらくは浅原と思いを同じくして満州で活動を行っていた竹中英太郎は後盾を失う。浅原ばかりではなく石原莞爾までも。結果として竹中英太郎はほとんど強制送還に近い形で帰国した。そして、石原莞爾は留守第16師団長とされるが、その後、予備役となり大学で教える立場になる。石原は社会主義的な改革を唱えたというから、もし浅原が行った工作が直接に作用したのだとすれば、凄いオルグであったのかもしれない。
 今回の考察は私の全くの妄想かもしれない。だが、もし真実だとすれば竹中英太郎の思想も行動も一貫していたことがわかる。つまり、15歳でマルクス主義を知ってから、またそれを直接的に行動によって実現してゆこうとし続けたのが彼の生き方だったということが。昭和初期、戦争に傾斜してゆき、思想が統制され、転向してしまう文化人がほとんどであった中、表面には現わさなかったけれども転向せずに全うした稀有な一人であったと言えるのかもしれない。そう考えると戦後の労働組合運動に至る一貫した竹中英太郎像が完成するようにも思うのだ。それは単に私の妄想にすぎないのだろうか。

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