竹中英太郎と『新青年』との1928年(1) [竹中英太郎]
昭和3(1928)年という年は日本にとっての転換点の一つであったが、挿絵画家である竹中英太郎にとっても大きな転換点となる節目の年であった。その激動ぶりは想像を絶するものがあるが、本稿ではそれをたどってみたい。
この激動の一年をたどるためには昭和2(1927)年からみてゆく必要がある。昭和2年の英太郎は雑誌『人と人』『家の光』に精力的に挿絵を提供していた時期にあたり21歳であった。この年のどこかで最初の妻である八重子と出会っている。二人の間に生まれた長男である竹中労は昭和3年3月30日に生まれているから、ここから逆算すると5月末には出会っていたのだろうか。この時、英太郎は下落合の東京熊本人村に住んでいたが、すでに橋本憲三・高群逸枝夫妻は上沼袋に転居していた。当時の英太郎には二つのジレンマがあった。それは、妊娠した八重子と結婚し出産に備えねばならないという実生活レベルと、もともと東京には社会主義革命を実践する、そのための勉強に来たとの思想レベルにおけるジレンマであった。一刀研二とともにプラトン社の編集部に編集長である熊本出身の西口紫溟を訪ねたのは前者の意味であったのだろう。山名文夫の見立てによって雑誌『クラク』の探偵小説への挿絵を描くことになったが、それはこの年の11月号からだった。『人と人』の突然の廃刊が昭和3年1月号発行直後のことだったから、ぎりぎりの線だったことだろう。
『左翼藝術』掲載の竹中英太郎の漫画
この激動の一年をたどるためには昭和2(1927)年からみてゆく必要がある。昭和2年の英太郎は雑誌『人と人』『家の光』に精力的に挿絵を提供していた時期にあたり21歳であった。この年のどこかで最初の妻である八重子と出会っている。二人の間に生まれた長男である竹中労は昭和3年3月30日に生まれているから、ここから逆算すると5月末には出会っていたのだろうか。この時、英太郎は下落合の東京熊本人村に住んでいたが、すでに橋本憲三・高群逸枝夫妻は上沼袋に転居していた。当時の英太郎には二つのジレンマがあった。それは、妊娠した八重子と結婚し出産に備えねばならないという実生活レベルと、もともと東京には社会主義革命を実践する、そのための勉強に来たとの思想レベルにおけるジレンマであった。一刀研二とともにプラトン社の編集部に編集長である熊本出身の西口紫溟を訪ねたのは前者の意味であったのだろう。山名文夫の見立てによって雑誌『クラク』の探偵小説への挿絵を描くことになったが、それはこの年の11月号からだった。『人と人』の突然の廃刊が昭和3年1月号発行直後のことだったから、ぎりぎりの線だったことだろう。
『左翼藝術』掲載の竹中英太郎の漫画
この竹中氏の漫画2011年の今、
見て説得力がある…
by 詩人の血 (2011-05-19 21:19)
詩人の血さま:コメントありがとうございます。竹中がこの漫画を描いたのが1928(昭和3)年春、まさに世は金融恐慌によって銀行が倒産、農村がデフレによって大打撃を受けている最中のこと。この時、皮肉にも普通選挙が行われ、同時に共産党と労農党への弾圧が激しさを増しました。
時代も似ているのかもしれませんね。
by ナカムラ (2011-05-20 19:46)