竹中英太郎と『新青年』との1928年(3) [竹中英太郎]

ふたたび生活レベルの話に戻る。『クラク』への挿絵が採用された英太郎は引越しの費用を手に入れることができ、牛込區肴町に引越したのだろう。その時期は昭和2年12月頃であったのではないかと私は考えている。八重子の出産が3月30日だと考えるとあまりぎりぎりであったとは考えにくい。そして長男である労が生まれる。『クラク』の専属画家を約束された英太郎は熊本に帰り、母を東京に引き取ろうとした矢先、プラトン社はメインバンクであった加島銀行の倒産によって連鎖的な倒産を余儀なくされた。昭和3年は金融恐慌の激しい嵐が吹き荒れた年だ。『クラク』の最終号は5月号であった。英太郎はこの号にも多数の挿絵を提供していたが、この同じ時期に発行された『左翼藝術』にも参加していたのだ。ふたたび英太郎は生活の側にひきよせられたことだろう。あわてた英太郎は下落合での隣人であった高群逸枝の夫、橋本憲三を頼る。橋本は平凡社の『現代大衆文学全集』での盟友であった白井喬二に紹介を依頼した。白井喬二は紹介状をしたため、雑誌『新青年』編集部にいた横溝正史あてに持参させた。『新青年』は森下雨村が総編集長であったが、実質的な編集長は横溝正史であり、編集には渡辺温がいた。英太郎も横溝もこの場面のことを回想し、二人同様に江戸川乱歩の原稿「陰獣」をその場で渡した(受け取った)としている。だが、『新青年』での英太郎の登場は7月号であり、印刷納本は6月1日なので編集部への訪問は5月の早い時期ではないかと考える。はたしてこの段階で乱歩は「陰獣」を書きあげていたのだろうか。3回にわけて掲載された小説の末尾には「昭和三・六・二五」の記述がある。5月のはじめには前半を書きあげて横溝に手渡していたのだろうか。それならば最初の訪問の際に英太郎に渡したというのも本当なのだろう。ただ、『新青年』昭和3年7月号をみると川崎七郎(横溝正史)名義の「桐屋敷の殺人事件」に4点、甲賀三郎の「瑠璃王の瑠璃玉」に4点の挿絵を描いている。なので、挿絵を描いた順序は横溝の川崎名義の小説が最初だったのではないだろうかと考える。つまり、横溝に認められ、横溝が書いた小説に初めての挿絵を描いた。そして偶然なのか意図的になのか、最後の挿絵も横溝正史の書いた「鬼火」であったということになり、それに何かの縁を感じる。

竹中英太郎「新青年」昭和3年7月号川崎七郎「桐屋敷の殺人事件」.jpg
『新青年』昭和3年7月号竹中英太郎挿絵「桐屋敷の殺人事件」(川崎七郎)
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