竹中英太郎と『新青年』との1928年(6) [竹中英太郎]
次に英太郎が登場するのは9月号であり、井上散平出題の『3は何?』の三等である。ここでは住所が「熊本市大江町三四九」に変っている。市内に合併されたのだろう。12月号では選外佳作として名前だけ掲載されている。この漫畫懸賞もかなり応募が多く、受賞は大変だったようである。『人と人』の懸賞小説に応募したように英太郎は『新青年』でも「懸賞探偵小説」に応募したのではないだろうかと想像している。しかし、レベルが高く入賞はできなかったのだろう。この懸賞には横溝正史や角田喜久雄、水谷準などが入選者として名を連ねている。横溝の「恐ろしきエイプリルフール」は大正10年4月号の掲載であったから、後に出会う二人は同じ時期に『新青年』に関係していたことになる。これも縁なのだろう。
『新青年』大正10年9月号
『新青年』大正11年3月号
こうした『新青年』に応募した漫畫のタッチとプロの挿絵画家になってからの作品ではあるが『左翼藝術』に掲載された漫畫「落盤の眞因」との共通性を感じる。大正11年から12年にかけての時期の英太郎は警察を辞めて無産者運動、水平社運動にはいっていった時期にあたる。そしてこの時期の英太郎は熊本に帰っていた作家の田代倫の家にいりびたっていた。一連の社会風刺的な漫畫は英太郎の無産者運動の表出の仕方であり、『左翼藝術』での昭和3(1928)年5月の表現は再度無産者運動での活動を英太郎が考えていた証拠だとも考えたいが、真相はどうだったのだろうか。昭和3年の金融恐慌が本来の英太郎に戻ることから引き戻してしまったのかもしれない。「陰獣」は夏季増刊から9月号、10月号と3回にわけて掲載された。そして英太郎と「陰獣」とを結びつけた横溝正史が『新青年』から離れる時が来た。「陰獣」の2回目が掲載された9月号の奥付にそれはあった。
『新青年』大正11年6月号
『新青年』大正12年1月号
『新青年』大正12年5月号
『新青年』大正10年9月号
『新青年』大正11年3月号
こうした『新青年』に応募した漫畫のタッチとプロの挿絵画家になってからの作品ではあるが『左翼藝術』に掲載された漫畫「落盤の眞因」との共通性を感じる。大正11年から12年にかけての時期の英太郎は警察を辞めて無産者運動、水平社運動にはいっていった時期にあたる。そしてこの時期の英太郎は熊本に帰っていた作家の田代倫の家にいりびたっていた。一連の社会風刺的な漫畫は英太郎の無産者運動の表出の仕方であり、『左翼藝術』での昭和3(1928)年5月の表現は再度無産者運動での活動を英太郎が考えていた証拠だとも考えたいが、真相はどうだったのだろうか。昭和3年の金融恐慌が本来の英太郎に戻ることから引き戻してしまったのかもしれない。「陰獣」は夏季増刊から9月号、10月号と3回にわけて掲載された。そして英太郎と「陰獣」とを結びつけた横溝正史が『新青年』から離れる時が来た。「陰獣」の2回目が掲載された9月号の奥付にそれはあった。
『新青年』大正11年6月号
『新青年』大正12年1月号
『新青年』大正12年5月号
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