たいせつな風景・S市点描「小川の流れと「きりん製作所」の路地」(3) [小説]

 それからの私は大学の講義、自主ゼミ、サークル活動、学園祭の準備などがあって、急に忙しくなった。きりん製作所のことを忘れたわけではなかったが、まわりもあわただしくなり、考える余裕がなくなっていた。季節はいつの間にか初夏を迎えていた。S市の初夏は実にさわやかだ。梅雨のないS市は青空が心地よく広がる毎日だった。そして緑が日増しにその色を濃くしていく。構内のローンで寝転がり、眩しい日差しをたっぷりと浴びた帰路、地下鉄の長い階段をのぼりながら「そうだ、きりん製作所を訪ねてみよう」と思いついた。脳裏にはM動物園で見た、あみめきりんの空ろなまなざしが浮んだ。階段をのぼりきった道路は夕方の斜めの光線ではあるけれど、わずかに光を残していた。公園から小川に沿って歩く。小川からはずれるように脇道へ入ると町の様子が少し変る。なんだか雰囲気の異なる、違う街並みに迷い込んだような錯覚を覚えた。そのまま進むと見覚えのある「きりん製作所」の看板があった。入口は青の扉だ。いつかの夜、髪の長い少女が吸い込まれたのは、この扉だった。あの時は窓からあたたかい光がもれてきていた。その時、低い弦楽器の音が聞こえた。あっ、チェロの音だ。弓ではなく、指でピチカートしている音だ。よく聞くと曲を弾いているのではなく、音を試しているようだ。やがて、弓で引き出すような音が響いた。音はふくらみ、あたりを充満し、遥かな小川に向かって吸い込まれてゆくようだった。

 「おじゃまします」と二度ほど声をかけると、内側から扉が開いた。
 「どうぞお入りください。ご依頼ですかな」
おだやかな声。白髪のおじいさんだった。前掛けをした姿だった。
 「あの、こちらは・・・」とたずねると、
 「ご存知なく来られましたか」と微笑される。
 「ええ、きりん製作所というお名前がどうにも気になりまして」
 「学生さんですか」
 「はい、H大学の・・・」
みまわすとチェロやコントラバスといった大型の弦楽器が置いてある。奥は作業所になっているようだ。
 「奥で作られているのですか?」とたずねると深くうなずかれた。
 「たしかにきりん製作所という名前では、ここが楽器の製造工房とはわからないだろうね」とにっこりされた。
そんなやり取りをしていると、背後の扉がきしんだ。
 「こんにちは、白鳥さん。あっ、お客様でしたか・・・・」
 「こんにちは。沙和子ちゃん、今日は何?」春にみかけた髪の長い少女がそこにいた。
 「ちょっとチェロの様子を見ていただけますか。なんだかちょっと調子が出なくて」
少女はチェロを抱えて入ってきたのだった。沙和子と呼ばれた少女は青空に似た色のブラウスに紺色のスカートを着ていた。目の力が強く、それは意志の強さを物語っているようだった。少女はケースからチェロを取り出し、白鳥さんとともに音を試しだした。チェロの音が腹に響いた。美しい音だった。楽器にも演奏にも詳しくはない私には二人が何をしているのかはわからなかったが、それは美しい光景だった。その様子に見とれていると、「よろしければお茶でも飲んでいかれませんか」と誘われ、白鳥さんと沙和子さんと三人で紅茶をいただいた。

 沙和子さんを送るため、部屋の方向とは逆であるが、小川に沿った道を歩くことにした。この道を歩くのは初めてだった。ずっと道の右側を小川が流れ、流れがはやいために激しいせせらぎの音がずっと響いていた。左側は住宅だが、大きな邸がほとんどだった。音楽のこと、チェロのことを聞きながら歩いた。流れはさらに北に続くのだが、大きな公園に向かって小川を渡り公園内の小道を歩いた。甘い香りがした。藤棚が作られていて、その藤が美しい房をなして咲いていたのだ。月のあかりに照らされた青紫の花弁が輝いて見えた。沙和子さんは、うれしそうに「藤の花の香りは人を狂わせるというけれど本当かしら」と笑った。月光で見る藤は独特の質感を感じた。古い洋館があって道はそちらに続いていた。地下鉄の駅はその先で沙和子さんをそこまで送って別れた。沙和子さんは、階段をおりながら笑顔で手を振っていた。
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