たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(1) [小説]

 バシッ。いきなり平手でたたかれた。僕の右頬は湯をかけられたように熱くなり、ひりひりと痛んだ。そのとき風のように現れ、面前に立った少女の真っ赤な靴の色が目に今も焼きついている。SUSUKINOとよばれるネオンあふれる町にある大きなディスコの玄関だった。急に激しい雨がよこなぐりに降ってきたので、路面電車の終点の駅から走ってきたばかりだった。事情がまったくのみこめなかった。「何をするんだ」と叫ぶと意外にも「ごめんなさい。・・・どうしよう」とおろおろした声。どうやら人違いをしたらしい。顔をあげると鼻がツンと痛んだ。

 シオンとの出会いはこうした誤解から始まったのだった。彼女は僕に似た男に裏切られたらしいのだ。そこで、そいつを待ちかまえてバシン。ところが人違いで僕がたたかれたというわけだった。シオンはS市の北の方に姉と二人で暮らしていた。S市は中心部から北側がまったくの平野。その先には海がひろがっている。「ハンカチ」を差し出されてはじめて鼻血が流れていることに気がついた。少しあおむけに休んでいるとシオンが不安そうにのぞきこんだ。おおきな茶色の瞳がゆれていた。僕はディスコで踊るつもりだったけれどやめた。シオンがあまりになさけない泣き顔をしているので、仕方なく大きなホテルのロビーにあるちょっと高級なケーキショップに行った。僕はイチゴのミルフィーユ、シオンはマスクメロンのショートケーキを頼んだ。向かいあう二人が映り込む大きなガラス窓のむこうを緑色の路面電車が走ってゆく。まるでシオンの頭ごしを走っているようにも見えた。シオンはしばらく黙っていた。さすがに複雑な思いで僕に接しているようだった。まあたしかに、彼女をだましてすてた男と僕は似ているのだからな・・・。できれば今さら思い出したくもないだろう。それなのにシオンの前に僕は座っているのだ。シオンはS市のはるか北に位置する海沿いの小さな港町に生まれた、しばらくして僕にそう話した。僕の耳にはずっとウミネコの声がなぜだか聞こえていた。雨の宵はネオンの光る夜の帳に変り、タクシーのクラクションの音に僕らは包まれていった。時間のたつのがすごく速く感じた。シオンは次第に笑顔に変わっていった。

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