たいせつな風景・S市点描「十年後を待ちながら」(1) [小説]

 初夏の心地よく乾燥した空気に包まれ学校から夜遅く帰った僕に電話がかかってきた。時計をみると11時をすぎていた。下宿なので大家さんの取次だ。ちょっと恐縮しながら受話器をとった。電話線の向うから酔った声で「なあ出てこいよ。話をしようよ。」との誘いだった。KohseiさんはSUSUKINOにあるジャズバーにいた。
Kohseiさんの隣には誰かがいるらしい。女性の声が聞こえてきた。

「那美さんも一緒なんですか」
「うん、一緒一緒。那美さんが君を呼べとうるさいんだよ、なあ来てくれよ。」

電話を切ってから仕方なく出かけることにした。着替えをして大きな通りにでてタクシーをとめた。「運転手さん、SUSUKINOまでいってください」。

 那美さんとは、あるホテルのロビーで初めて会った。文学者でもある大学教授から紹介されたのだった。那美さんは東京の大学を卒業、大きな広告代理店にコピーライターとして採用されて活躍していたが、実家の都合でS市に帰ってきたばかりだとのことだった。その席にKohseiさんもいた。Kohseiさんはすでに文学に関する新人賞を受賞していて、僕たちの先輩格としてその場に呼ばれていた。その日は顔合わせみたいなものだったので、自己紹介をしただけで約束の時間が来てしまい、実質的な話し合いは、その後お互いに連絡を取り合ったり、集まったりして個別に行った。あるイベントを一緒に企画しようとの話になり、那美さんの家に僕たちは集まることにした。Kohseiさんと僕は那美さんの家のそばにできたばかりのコンビニエンスストアで待ち合わせた。まだ当時は朝7時に開店、夜11時までひらいているというコンセプトが目新しかった。店内は妙に明るく白々しく感じたが、今ではそれが普通になってしまった。コンビニに行くにはバス停から橋を渡るのだが、きれいな水の美しい流れが下にはあり、まわりには気持よさそうな川原がひろがっていた。この川の堤防にそった河川敷に林檎の樹は並木のように植えてあり、花は満開に咲いているのだった。風にのって花の香りが僕らのところまで漂ってきていた。僕は最初なんの花なのかわからずKohseiさんに聞いた。Kohseiさんは「あれは林檎だよ。見たことない?」と不思議そうな顔をした。南の地方で育った僕は林檎の花をそれまで見たことがなかった。那美さんの記憶は、結果としてこの初めて見た林檎の花とともに僕の脳裏に刻まれたようだ。かなり朝早くの待ち合わせだったが、那美さんは何かの原稿の締切で最初から徹夜覚悟の仕事があって、朝寝る前に僕らとの打ち合わせを済ませておこうと考えて彼女が決めた時間だった。那美さんの部屋にあがって打ち合わせたのだが、那美さんの部屋はまるで仕事部屋で女性の部屋に入ったという感じを与えないものだった。

nice!(10)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。