たいせつな風景・S市点描「十年後を待ちながら」(3) [小説]

 僕と那美さんとのつながりは文学だったが、那美さんは演劇につよい関心をもっていた。どうやら芝居の演出や舞台美術の仕事なども受けていたようだった。S市にはいくつかの劇団があって、那美さんもその一つに属していた。S市の中心近い商店街にT小路があり、賑わっていた。いつも人通りが絶えなかった。東から西に向かい長いアーケードがつながっていて、おおくの飲食店やみやげもの屋があった。文学者がおおぜい集まるバーもT小路にはあった。演劇関係者はT小路の真ん中あたりの2階にあったロシア料理店によく出入りしていた。那美さんからの次の呼び出しはこの「ロシア料理店に集合!」であった。S市にはロシア革命のときに亡命、来日したロシア人もいた。那美さんの演劇仲間にもロシア人のクォーターだという女優がいた。芝居の打ちあげをロシア料理店でやったそうで、まだ何人かの役者も残っていたが、そこに僕は呼び出されたのだった。「今日は私のおごりだから、好きなものを頼んでよ」と言われた。どうやらこの間のお詫びらしい。那美さんらしいが、これだって考えようによっては、かなり遅い時間だったし、僕が迷惑に思わないなんて確信はないだろうし、不思議なお詫びではあった。
 
 那美さんはハンガリー・トカイの貴腐ワインを飲みほしてしまい、今は冷凍したボトルからどろどろになったストラバヤを飲んでいた。僕は那美さんが頼んでくれたボルシチを食べ、露西亜餃子やキノコ料理、ピロシキをたいらげた。飲めない僕はバラのジャムのロシアン・ティーを飲んだ。そして「この人はねえ、十年後が楽しみなのよ。私はね、十年後にこの人がどうなっているのか確かめたいと思うの。」と那美さんはマスターや残っていた俳優たちに告げた。役者たちは「君は一体何をしている人なの。」と僕のまわりに集まってきた。でも、僕はなにものでもなかった。那美さんが僕の手をとって店の外へと連れて走った。アーケードがきれた空には天の川が流れていた。きれいだった。まるで空に無数の星が溶けてゆくようだった。そうまるで、今まさにその場で融けているようだった。星のるつぼがそこにはあった。

 Kohseiさんは、那美さんに自分が何を言ったか覚えていないようだった。あるいは覚えていない振りをしているだけかもしれなかったが、それ以上詮索はしなかった。Kohseiさんと僕はあの夜以来親しくなり、よく会うようになった。Kohseiさんは普通の人に比べて強い感受性を持っていて、その分傷つきやすいように思った。いつも自分を自分で傷つけてしまうところがあって、それが僕には心配であった。ある日、車で僕の家にやってきたKohseiさんは「今からH市にゆこう」という。さすがに僕は驚いた。大丈夫なんですか、仕事はどうするんですかと思った。Kohseiさんは全くそんなことは気にしていなかった。H市にはKohseiさんと同じころに文学に関する新人賞を受賞した文学者がいて、その人を訪ねるというのだ。迷惑じゃないだろうかと思ったが、「大丈夫。」と断定されて助手席にのった。はじめて乗ったKohseiさんの運転は予測不能な動きをすることがあって少し戸惑ったが、すぐに慣れた。車窓には初夏の山並みや緑が飛びこんでくる。窓をあければさわやかな風がほほに吹き付けた。さすがにH市は遠く、一泊することになった。Kohseiさんは純粋で、無垢でまっすぐな人であったが、一方で向う見ずな、こうしようと決めたら曲げないところがあって、周囲を戸惑わせた。山の上からみたH市の夜景は美しく、きらきらと輝いていた。Kohseiさんは那美さんが僕たちのそばにいないのが寂しいようだった。そのことをきくと、さびしそうに笑った。麓からは気持ち良い風が吹いてきていた。

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