若き柳瀬正夢と落合という場(1) [柳瀬正夢]

 1900年1月12日、松山・大街道で生まれた柳瀬正夢が門司と東京をいったりきたりしながらも画家としての生活を、東京を基盤にして行ってゆこうと意識したのはいつのことだったのだろうか。一握りの画家以外はタブローを売ってくらしてゆける環境ではなかったのも事実である。この時代、地方出身の才能ある若者が東京と地方とを行き来しながら自らの道を求める動きがみられる。文学の世界でいえば1896年生まれの宮沢賢治や尾崎翠はそうした存在であった。尾崎翠は結局、故郷の鳥取を離れて東京の上落合に定住を始めることになった。1920(大正9)年、柳瀬は東京に定住を始め、読売新聞に入社した。1920年といえば普門暁が未来派美術協会を設立した年であり、翌21年に柳瀬は未来派美術協会に加わっている。ところが普門暁は1922年に除名され、木下秀一郎が後を継いだ。木下秀一郎の姪タケは尾形亀之助の妻。この縁からか、尾形も未来派美術協会の会員となる。1923(大正12)年に尾形は上落合に居を構えるが偶然にも村山知義の叔母の借家であった。柳瀬が落合地域に入ってくるのは1922(大正11)年のことで、多くの文献が「東中野」と表記している。たしかに東中野には違いないのであるが、実際の場所は小滝橋のすぐ近くの車屋の2階であった。現在の早稲田通りのすぐ南側になる。村山知義の三角のアトリエの家までは5分とかからない距離であった。ここに居を柳瀬が定めたのは、長谷川如是閑や大山郁夫といった雑誌『我等』の中心人物たちの近くに越して来たいということであったのかもしれない

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  雑誌『我等』大正10年2月号

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  柳瀬正夢挿絵(『我等』大正10年2月号)

 ただ、この時期には東京は郊外への都市部拡大の動きが活発になっており、その背景にはマスプロダクト化、工業化の波があった。農業を離れた労働者が都市部に流入、大正年間を通じて大きな人口流入の動きとなった。当然のごとく流入者への住居の提供は都市の必要条件であり、都市郊外の開発は急ピッチで進められた。また、西武新宿線のような鉄道の整備も進められた。落合地域も例外ではなかった。目白文化村に代表されるように郊外開発が進められた。画家・金山平三は現在の西武新宿線の中井駅の北側にアトリエ村を作り、芸術家たちが集う街の開発を企図した。これを金山はスペインの芸術村アヴィラの名前にちなんで「アビラ村」と呼んだが、「芸術村」とも呼ばれたようで、大正13年に下落合に住んだ高群逸枝の『火の国の女の日記』には以下の記述がある。

  二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。

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