若き柳瀬正夢と落合という場(2) [柳瀬正夢]

ちなみに高群の日記にでてくる小山は作家・小山勝清のことで、大正13年の小島きよの日記にも「小山さんのところ」として登場している。その後、落合地域は昭和初期になって文学者とくにプロレタリア文学者がかたまって住む地域になるが、大正11年あたりで見渡すと、まだそれほど多くの文学者がいたわけではなかった。むしろ画家が目立っていた。佐伯祐三、中村彜、鶴田吾郎、曾宮一念などが住んでいた。若き柳瀬にとってこれらの画家たちの存在はどう映ったのだろうか。この引っ越しの前年となる1921(大正10)年に柳瀬は雑誌『種蒔く人』の同人となり、未来派美術協会の会員となる。読売新聞の社員ではあるが、反戦主義から出発し、ついにはボルシェビキズムに傾斜してゆく左翼的な思想と、絵画であってもアヴァンギャルドな精神を体現する新たな芸術活動を同時に受容したのであった。その直後の極めて大切な時期に落合に転入してきたといえるだろう。ここに結婚したばかりの仙台出身の画家・尾形亀之助が越して来た。そして決定的な事としてドイツに留学していた村山知義が未来派美術協会の若手二人の間に不時着したのであった。これは大きな事件であった。1923(大正12)年1月に村山は帰国するが、村山は「意識的構成主義」という新たな芸術概念を持参して帰ってきた。未来派美術協会の活動に満足できなかった若手、柳瀬と尾形はある意味、村山を落合に住んで待っていたということになろう。もちろんそれは比喩的な意味にすぎないが。5月、村山の自宅である小滝橋のほど近い「三角のアトリエの家」において開催された「村山知義 意識的構成主義的小品展覧会」には柳瀬も尾形もかけつける。柳瀬が下宿した場所からは歩いて5分とはかからない近さだった。そして大浦周蔵や門脇晋郎も加わってMAVOが結成された。この時代の村山は思想的にはノンポリティカルであったように思う。意識的構成主義もアヴァンギャルドな要素を受容してきたものであった。柳瀬は村山へのオルグを始めた。雑誌『我等』で親交が深かった長谷川如是閑と大山郁夫。そして『種蒔く人』で知りあった佐々木孝丸や山田清三郎。リベラルな彼らの考え方に若き柳瀬は共鳴したのであろう。特にこの年の夏、柳瀬は大山郁夫に接近していた。大山の家は柳瀬の下宿から戸山ヶ原にむかって歩けば5分くらいの距離だ。震災の前、大山夫妻と柳瀬は千葉の海に避暑に赴いていた。柳瀬は震災発生2日前に大山夫妻よりも先に東京に戻っていた。大山のことが心配になった柳瀬は留守宅に番をしにゆく。ここに9月6日、憲兵隊が来たのだった。しかし検挙しようにも大山は千葉から帰宅してはいなかった。関東大震災の混乱に乗じて朝鮮の人々が暴動を起こしているとか、主義者が暴徒となって何かの破壊活動をしているとの噂が流れ、不当な監禁や暴力が行われた。権力は外国人や主義者たちをこの機に乗じて殺してしまおうとしたのだった。暴動の鎮静を名目に戒厳令が敷かれ軍隊が派遣され、どうやら下落合にも憲兵隊本部がおかれたようだ。この憲兵隊の一隊が大山の自宅には来ていた。しかし、大山は不在だ。この時は大山がターゲットだったので柳瀬は無事に済んだ。しかし、柳瀬本人にとっても危険はあった。それはその夜に早くも現実化する。夜11時すぎ、下宿に憲兵隊がおしかけ、柳瀬自身が連行されることになったのだ。柳瀬の下宿からは少し離れてはいるが、堺利彦門下で、いくつかの労働争議にもかかわっていた小山勝清も危険だったようだが、こちらも当日は偶然に出かけていて無事だった。そして自宅に帰ってからはあえて町内の見回りなどに積極的に関わり、見張る側に身をおくことで危険を軽減したのだという。小山は中井の三の坂上あたりに住んでいた。連行された柳瀬はすでに徒歩で連行されている者たちとともに歩かされたが、一隊は小滝橋からは戸山ケ原の方へと向かった。この道はなんと大山郁夫の家の前を通る。大山夫妻はまだ帰宅していなかった。
nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。