若き柳瀬正夢と落合という場(3) [柳瀬正夢]

戸山ケ原は次第にさびしくなってゆく。人家が少なくなっていくからだ。柳瀬はこのときの様子を「狂犬に噛まれる」(『戦旗』1928年11月号)という文章にまとめている。以下少し抜粋して紹介する。

落合の通りから小滝橋を渡って高田馬場への道を。大山さんの家の前の通りをだらだら下り切って突き当った通りへ来て、空地の中に「休め」の姿勢をとった。
(略)
伝令がきた、私達は又前のような隊伍で進んだ。坂を上って、大山さんの家の前をよぎると戸山ヶ原にでた。
(略)
僕達の一隊は原っぱをうねり乍ら、伝令を待っては進んだ。林を抜け、丘を下り、線路を渡って射的場附近から人家の方へ右に廻った。此処で今迄の兵士が四人抜けた。生垣を幾曲りかすると「戒厳司令部中隊本部」だった。
(略)
取調べ調書をとられ本部送りになる所を特高が引き取っていった。近くの淀橋署戸塚分署の留置場に放り込んだ。

この回想で柳瀬は「死を覚悟した」と書いている。おそらく軍隊は殺気立ってきていたのだろう。だが、ここで運命が変わる。特別高等警察が柳瀬を引き取ったのだった。特高に連れられて柳瀬が向かったのは、現在の高田馬場駅のやや東南方向、諏訪町郵便局のあたりにあった淀橋警察署戸塚分署であった。柳瀬は命拾いをしたと書いている。

皮肉なことに、ブタ函に入って僕は始めてホッとしたのだ。ファッショオの犬死から免れたことに。

戸塚分署の牢屋には柳瀬のほかに落合の住人である平林たい子夫妻も連行されてきていた。大山郁夫であるが千葉から帰ったところを憲兵隊に連行される。ただし、震災から時間が経過しており、この時には新聞社も同行する余裕があった。さすがに大山は大物であり、新聞記者に同行されるとなると手荒な真似もできずに下落合の憲兵隊本部に連行したようであった。大山も千葉にいたのが幸いであったといえるだろう。この一連の事件を当時の村山は無関係に暮らしていた。村山をはじめとするMAVOのメンバーは今和次郎を中心としたバラック装飾社とともにバラック建築を設計、施工してゆく。マヴォ理髪店、バー・オララ、バー・キリンなどをキャンバスにして新興芸術家たちは町に飛び出していった。建築物を仮設するという形で。

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