霧や影のちらつきに似て(3) [尾崎翠]

 尾崎翠の戦前期唯一の著書は『第七官界彷徨』(1933年 啓松堂)であるが、この一冊は評論家、板垣直子のすすめによって実現した。同じシリーズの平林たい子『花子の結婚其の他』の序には「板垣直子さんのすゝめで、こんな本ができ上つた。」とある。啓松堂のこのシリーズでは城夏子や林芙美子、北川千代なども出版しており、どうやら雑誌『火の鳥』の執筆作家を対象に板垣直子の選定によってシリーズ化したようだ。そもそも「第七官界彷徨」全編が掲載されたのは板垣直子の夫である板垣鷹穂が編集主幹を勤める雑誌『新興藝術研究』2号においてであった。板垣鷹穂は『機械と藝術との交流』(1929年 新潮社)や『優秀船の芸術社会学的分析』(1930年 天人社)に見るように機械美学の提唱者であった。それは未来派の考え方にも近く、新たな機械文明の中に美術的な価値を見出そうとしたものだった。従い、鉄の構造物、コンクリートによる大規模な建築、大型船や高速鉄道やそこを走る鉄道車両、ネオンや照明、映画や演劇、劇場などが美学的な研究対象になるのであった。また板垣には多くの映画に関する記述、論考もある。機械美学の推進者が映画をはじめとする新たな視覚表現に大きな関心をもつことは当然の帰結のように考えるが、板垣は写真家の堀野正雄との写真グラフによる新たな視覚表現も試みる。機械美学の考え方を雑誌や書籍のグラビアページに印刷することによって大衆への浸透を図ったのであった。そもそも堀野は上落合186番地にあった村山知義の三角のアトリエの家に同居し、築地小劇場の舞台写真などの撮影を行っていた。その後堀野は板垣鷹穂の自宅(上落合599番地)に近い場所(上落合441番地)にスタジオを開設する。そしてこの時期に二人の写真グラフ的なコラボレーションがさまざまに行われた。板垣のこの時期の多くの著作の口絵ページには堀野の数多くの建物や橋や劇場や映画館やネオンや船や乗物などの写真が素晴らしくレイアウトされて掲載されている。この堀野のスタジオのすぐそばには古川緑波の自宅があったが、手元にある文藝春秋社が大正15年12月に発行した『映画時代』の編集は緑波が行っていた。築地の小山内薫や作家の谷崎潤一郎なども映画の制作に直接にかかわっており、菊池寛や直木三十三、その親友の三上於菟吉も映画には大きな関心をもっていた。当時のニューメディアである映画はこの時代の文化人に大きな影響と刺激を与え、夢中にさせた。たとえばプラトン社が発行した雑誌『女性』や『苦楽』には映画ファンクラブのような組織が形成され、多くの上映イベントも開催された。この時の編集長は直木三十五であり、川口松太郎であった。後に雑誌『新青年』の編集、そして推理作家となる渡辺温はプラトン社が募集した映画筋書懸賞に「影」で応募、入選して雑誌に掲載されたが、これが文壇へのデビューとなる。渡辺温は『新青年』では横溝正史編集長のもとで編集を担当する。江戸川乱歩の「陰獣」の挿絵を担当することになる竹中英太郎が1928(昭和3)年5月に白井喬二の紹介状をもって『新青年』編集部を訪ねた際には横溝、渡辺コンビが編集を担当していた。竹中は自らの絵の原点を熊本でみた映画の絵看板であると語っているし、上京以前の熊本在住時代には映画館のファン雑誌にも投稿していたほどの映画ファンであった。前述の『映画時代』大正15年12月号であるが渡辺温はオン・ワタナベ名義で「オング君の説」を執筆し掲載されている。

「ファンタヂイの無い活動寫眞程愚しいものはまたとないと思ひます。」
「とにかく僕はそんな風に自分の好きな夢を、ほんとに上等な活動寫眞を楽しむと同じ心で、毎夜、殊にそれは明け方近くのやや眠りの、浅くなつた時間に於て一層はつきりと映るのですが、さまざまと頭の芯に懸ってゐるスクリーンへ映し出してみるのです。」

と渡辺温は書いている。
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