平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(2) [柳瀬正夢]

村山の『演劇的自叙伝2』には戦後に村山が平林に「うちにリャクに来たのを覚えていますか?」と聞いたことが書かれている。平林は「もちろん覚えています」と答えたそうだ。だから、たとえ出会っていなくとも平林と柳瀬はきわめて近いところにいたことになる。柳瀬の下宿は東中野といっても落合との境の小滝橋にほど近く、村山の家までは至近であった。また、関東大震災後に柳瀬が検挙されて留置された淀橋警察署・戸塚分署には平林夫妻も留置されていた。『花子の結婚其の他』によればこの留置場で柳瀬と知りあったのだという。その後に平林夫妻は満州にわたった。満州での悲惨な生活と夫の投獄、夫を満州に残して一人帰国したたい子は神戸から東京に戻った。平林は結婚して生活を安定させたいという希望をかなえるために柳瀬のところに相談にゆく。そして神戸でYに手紙を書いた経緯を話したろうが、もちろん柳瀬にとっては生活の安定のために結婚相手を探してほしいといわれても知ったことではなかったろう。平林がしつこく頼んだのだろうか、柳瀬はマヴォのメンバーである高見沢路直(のちの田河水泡)を紹介する。お見合いということなのだろうか。高見沢と平林はつきあうが、高見沢が婚約(本当に婚約したのだろうか)を破棄する。それはアナキストの平林とマヴォイストの高見沢との性格の不一致(思想の不一致?)によるものだったようだ。婚約を破棄されて困った平林が柳瀬に相談にゆくと、高見沢からお金をとってはどうかとの助言を受けた。しかし高見沢にお金があるわけではない。おそらく柳瀬も知っていただろうに、一時の逃げ口上だったのだろうか。案にたがわず高見沢にお金はない。お金はないが、かわりに他の男を紹介するということになり、やはりマヴォのメンバーである岡田龍夫を紹介したのだった。今になって考えてみるとすごい。柳瀬に高見沢を紹介され、高見沢に岡田を紹介され、それ以前には村山の家にリャクに行ったのだから、「さすがは平林の姐御!」と掛け声をかけたくなる迫力である。それは今から見たときの話なのだろうけれど、それでも凄い。岡田龍夫といえば萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』(1925年10月刊行)を飾ったリノリウム版画の素晴らしさを私は思いだす。『死刑宣告』は岡田の作品だけが掲載されているわけではなく、村山も柳瀬もブブノワも作品をよせているが、岡田のリノリウム版画の量と質が突出していて見事である。岡田はもっと知られていい画家ではないだろうか。高見沢に紹介された岡田と平林は落合地域で同居を始めたのだが、一体どのあたりに住まいしたのだろうか。私には特定することができなかった。この時期、村山知義も尾形亀之助も萩原恭次郎も落合地域に住んでいた。岡田の好みからいえば萩原恭次郎のそばに住みそうだが、こればかりはわからなかった。
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