平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(3) [柳瀬正夢]

 関東大震災での警察への連行があり、また長谷川如是閑の助言も受け、柳瀬は一時避難を目的に門司に向かう。戒厳令下の東京は社会主義者にとってとても危険であった。現にアナキストの大杉栄と伊藤野枝は震災後のどさくさに紛れて特高によって虐殺されたのだった。そして危険は社会運動家の全員にふりかかりつつあり、落合の住人では、たとえば作家の小山勝清も危なかった。小山と同郷の熊本の作家、田代倫は郷里に難を逃れていた。そこで若き日の竹中英太郎と出会うのだった。橋浦泰雄も危険だったのではと思ったが、自叙伝である『五塵録』は有島武郎の死までしか記述がなくわからない。実際にはどうだったのだろうか。橋浦と柳瀬がともに装丁やイラストやデザインの仕事をしていた出版社は足助素一の叢文閣であった。足助素一は北海道大学出身で、有島武郎の本を出版するために叢文閣を作った。札幌では橋浦泰雄の弟である橋浦季雄が足助素一とも有島武郎とも親しくしており、そのつながりから橋浦泰雄も二人と親しくなる。橋浦の郷里である鳥取に有島は講演のために訪問するが、こうしたつながりからだ。その直後に有島は心中事件をおこす。足助素一も橋浦泰雄も対応に奔走することになった。有島の死はこの時期の社会主義的な文化人に多大な影響を及ぼしたものと思われる。例えば柳瀬正夢や佐々木孝丸が同人であった雑誌『種蒔く人』への援助なども惜しまなかった。ある種のリベラルなパトロンでもあったといえるだろう。その支えを失ったことは大きい。
 橋浦泰雄の同郷の後輩格、涌島義博も叢文閣で働くようになり、ここで本づくりを覚えた。妻で作家である田中古代子と涌島が東京で住んだ場所は、少なくとも1926(大正15)年には上落合であった。板垣鷹穂と直子の家のすぐ近くである。叢文閣での勤務の後、涌島は南宋書院を始める。南宋書院は多くのコミュニズム関係の書籍を出版するが、林芙美子の最初の詩集『蒼馬を見たり』も出版している。橋浦は震災後、地震見舞いに行った叢文閣で同じく見舞いにきた大杉と出会い、親しく会話を交わしたのだった。橋浦は意気投合したと書いている。しかしこれが二人にとって最初で最後の会話になってしまう。大杉栄と伊藤野枝の遺体は橋浦泰雄が1920(大正9)年頃に下宿していた上高田の宝仙寺近くにある落合火葬場に運ばれた。万事を足助素一が取仕切り、それに橋浦も協力したようだ。6月の有島の死、9月の大杉の死、二つの不幸が連続したのだった。叢文閣から出版された長谷川如是閑の多くの著作や山田清三郎の『プロレタリア文学史』(昭和3年刊行)などの装丁は柳瀬正夢の手によっている。そもそも柳瀬が単行本を最初に装丁したのは叢文閣から出版されたアンリ・バルビュスの『クラルテ』であった。1923(大正12)年のことである。柳瀬は大正12年に長谷川如是閑の『お猿の番人になるまで』『奇妙な精神病者の話』の装丁を担当したが、いずれも我等社からの出版であった。一方、震災以後に関しては叢文閣での仕事が目立つ。1924(大正13)年に刊行された長谷川如是閑の『真実はかく語る』『老人形師と彼れの妻』『象やの粂さん』の3冊はすべて柳瀬の装丁である。雑誌の装丁としては1920(大正9)年創刊の『我等』、1921(大正10)年創刊の第二次『種蒔く人』がある。震災後、柳瀬は門司に難を逃れていた影響だろうか、読売新聞社を退社している。勤務していた読売新聞では柳瀬は風刺マンガなどを描いていた。
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