平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(4) [柳瀬正夢]

門司に難を逃れた柳瀬は東京に戻った際に下宿先の娘である青木梅子と結婚する。梅子の実家は村山知義の三角のアトリエや大山郁夫の自宅にほど近い小滝橋そばの車夫の家。そこの2階に柳瀬は下宿していたのだった。この実家から1924(大正13)年1月、柳瀬夫妻は杉並の馬橋に借家して引っ越した。ここに平林は訪問したのだろうか。そうならば新妻の梅子には平林はどう映ったのだろうか、興味はつきない。結婚後の柳瀬の活動はマヴォで村山や他のメンバーと展覧会をゲリラ的に行っていた時期とは異なっている。それはタブローを描かなくなったことであり、それにかわり新聞や雑誌、ポスターや本の装丁といった商業的な仕事が多くなっている点である。この時期、村山知義は建築や舞台美術の仕事が増えている。二人はその道を分けたようにもみえるが、それは違っており、お互いに影響を与え、受けつつも一定の距離を保っていたようである。そもそもマヴォは1923(大正12)年の宣言において「講演会、劇、音楽会、雑誌の発行、その他をも試みる。ポスター、ショオウヰンドー、書籍の創釘、舞台装置、各種の装飾、建築設計等をも引き受ける」としており、ロシア構成主義、アヴァンギャルドと同様にタブローにこだわらない姿勢を対外的に打ち出した。結婚後の柳瀬がポスターやマンガや雑誌や書籍の装丁に仕事の比重を高めてゆく姿を見て、マヴォの初期の展覧会にみるような前衛的なタブローやオブジェ、過激なパフォーマンスから離れていったようにも見えたのだが、宣言から判断するとマヴォの範疇に適応した活動に集中しているようである。読売新聞を退社した柳瀬は「無産者新聞」の専属画家となって活動する。無産者新聞でのポスターのデザインは素晴らしい「絵画」でもある。一方の村山は震災後の東京の復興にチャンスを見出す。バラック装飾社によって仮設建築のデザインや装飾を行う。仮設的な劇場である築地小劇場の舞台美術を行うなど建築的な仕事に集中する。これも宣言にあった範疇である。
柳瀬が同人としてよって立った雑誌『種蒔く人』は震災によって中断、結局は廃刊となった。この後継誌となった『文藝戦線』の同人と柳瀬はなり、その表紙も描いている。この『文藝戦線』に平林たい子は小説を発表している。これも何かの縁なのだろうか。平林は村山の家にリャク(略奪)に行ったが、辻潤と小島きよは酒をたかりに行き、柳瀬正夢は村山をオルグに行った。村山をコミュニストにするべく議論をふっかけていた柳瀬。しかし、簡単に村山は応じなかった。この時期の村山は純粋に芸術にしか関心がなかった。村山は自伝において、三角のアトリエのイスに柳瀬が座って議論を交わしたことを懐かしく思い出し、記述している。

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