闇に輝き顕れるもの(4) [本]

 バブル崩壊後、日本の地方は疲弊し地域コミュニティーが次第に崩れ、住民の生活を支えた商店街はいわゆるシャッター通りにかわっていった。一律的にミニ東京化するような地域開発のつけを我々は払うことになったのだった。もちろん地域の住民こそが最大の被害者である。こうした地方の疲弊した姿、けだるくながれる時間のありよう、この状況を80年代初めの北海道はすでに先取りして体現していた。佐藤泰志がこの空気を自然にまとっているのは、1981年にわずか1年間とはいえ函館に帰り、そこで家族を抱えながら暮らしたことが大きかったのではないかと思う。また、直接的にも影響を受けたと思う記述も「海炭市叙景」には登場する。それは、「第一章 物語のはじまった崖」の「1 まだ若い廃墟」にある。

  兄は山に登るどころか、地下で働く日々を送ってきたのだ。去年の春、兄の勤めていた小さな炭鉱は閉山した。組合は会社の一方的な閉山宣告に反撥して、デモや市への陳情を繰り返し、自分たちの力だけで石炭を掘り続ける組織作りをしたが、二か月もすると誰もが見切りをつけてしまった。

これにより人々に残ったのは「濃い疲労と沈黙、わずかな退職金だけだった」のだ。もちろん佐藤泰志は現実的にあった事実の描写としてこれを書いたわけではない。そもそも佐藤泰志がこの小説を書いたときには1986年から続く、いわゆるバブル景気の上昇局面時期のことであって、あえてバブル崩壊後のことを予言する必要はなかったはずである。しかし、状況を先取りしている北海道のことを身近に感じていただろう佐藤泰志は炭鉱の閉山を描き、濃い疲労とやりきれない沈黙を描いたのだった。この表題をみて私は戦慄した。「まだ若い廃墟」というタイトルをどう受け止めればいいのか最初は戸惑った。「まだ若い廃虚」はごく普通の人間として受けるべき人としての尊厳を受けることができず、地域のコミュニティーからも断ち切られた兄妹の物語であり、兄は初日の出を見るために登った山から帰らない。そんな兄の心の廃虚、よりそう妹の心の廃虚、地方都市の崩壊してしまったコミュニティーが抱える廃虚、経済的な歪みによって将来生じるであろう廃虚、亡霊のようなその廃虚感は、まだ若い人生を現実的な廃虚にかえてしまったのだ。救われない心に廃虚をかかえたままの若者たち。その姿を佐藤泰志はバブルに浮かれた日本にゴロリと転がして見せたのだ。しかも好景気は永遠に続くのではないかと人々が幻想を抱いていた時期に書かれたのだから驚かされる。  連作「海炭市叙景」は完結してはいない。しかし最後になった「9 しずかな若者」のラストは象徴的な記述で終わる。まるですべてを完結させるように。

両側を木立ちにせばめられた道を抜ければ、太陽がいっきに彼の車を照らすだろう。そうだ。何も隠してはならないんだ。それはもう、じきだ。

佐藤泰志は死をまえにして照らされる何かをみつけたのだろうか。いまは輝いていなくとも、もうすぐ輝く光をみつけていたのではないか。そうであってほしいと切実に願った。
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