新宿・落合散歩(4) [落合]

第三章:東京熊本人村

 「下落合のいわゆる東京熊本人村に住んだ」という記述を見つけたのは弥生美術館において開催された挿絵画家・竹中英太郎展(2006年)の会場パネルだったと記憶している。竹中英太郎は雑誌『新青年』で活躍、特に江戸川乱歩の「陰獣」の挿絵や横溝正史の「鬼火」の挿絵など探偵小説の挿絵を描いて人気を博したこと、プラトン社の雑誌『クラク』の最晩年における挿絵画家として活躍したこと、この二点を知っていたのだった。しかしこの展覧会を見るまで、竹中英太郎が下落合に住んでいたことも、その住んでいた場所が「東京熊本人村」と呼ばれていたことも知らなかった。この日から私の「熊本人村」の探索が始まった。だが、その場所も実像もまったくつかめなかった。地元の古くからの住人に直接インタビューもしたが、誰一人「熊本人村」という言葉すら知らなかった。だが、糸口は竹中英太郎自身が用意してくれていた。熊本日日新聞(1980年)のインタビュー記事に下落合在住作家・小山勝清の家の近所に住んでいたこと、その借家には歌人で脚本家の美濃部長行を居候させていたことが書いてあった。そこで、小山勝清や、小山と同郷でやはり近くに住んでいた橋本憲三、高群逸枝の著作にあたっていった。その調査で小山勝清の著作『或村の近世史』(1925年)の前書きに小山の住所を見つけたのだった。そこには「下落合2194 著者」とあった。これで小山勝清の1925(大正14)年当時の住所が判明した。そこは中井四の坂上、坂を上りきってすぐの場所であった。この隣に竹中は住まいしたのである。

 1924(大正13)年末か1925(大正14)年になったばかりの時期に竹中英太郎は九州から東京にやってくる。1924(大正13)年は熊本でのはじめてのメーデーに参加、その後に筑豊炭鉱での労働争議にオルグとして参加、秋に挫折を経験しての上京であった。革命には勉強が必要と感じ、あらためて勉強するための上京であったという。しかし竹中は東京に暮らすようになった直後から雑誌に挿絵を描き始めている。それは協調会発行の『人と人』という雑誌においてであった。その3月号から筑波四郎の小説「天保快挙録」の挿絵を描いている(ただし当初は「日野永」名義)。これがデビューである。一方、作家・小山勝清も竹中と同様に熊本生まれの熊本育ち。売文社の堺利彦の弟子としていくつかの労働争議にもかかわっていた。その小山と親しく往き来していた熊本出身者に橋本憲三と高群逸枝がいる。高群は詩人、橋本は作家であり、平凡社の社員でもあった。世田谷で関東大震災を経験した二人は小山の紹介で東中野の借家に住むが、アナーキストの居候たちに切れて家出した高群。高群を連れ戻した直後の仲直りの家は、またも小山の紹介によった。今回は小山の家のすぐ近所であった。隣人はまさに竹中英太郎、小山勝清、美濃部長行。こうした熊本出身者が集まった一画を「熊本人村」と呼んだものらしい。当時は畑や植木畑がひろがり、落合大根で有名であった郊外の田舎であったが、現在は家が密集した住宅地に変わっている。高群逸枝の『火の国の女の日記』(1960年)によれば、別の隣人として詩人の春山行夫がいたらしい。春山は同郷(愛知)の画家・松下春雄や鬼頭鍋三郎などのメンバーとグループ・サンサシオンを結成しており、上京してきた仲間たちと下落合で共同生活をしていた。この後、佐伯祐三のアトリエに近い下落合1445番地に越している。ここには松下春雄も同居している。

 さて、この高群の『火の国の女の日記』には「下落合界隈」なる一章があり、当時の様子が描かれていて興味深い。以下に引用する。

「二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。」

まさに中井五の坂上の情景であり、「芸術村」の俗称とは画家・金山平三のいう「アビラ村」のことである。金山平三のアトリエもつい最近まで現存していたが取り壊されていまはない。

「私との生活にも寛容とよろこびをもつようになった彼を、夕方ごちそうをつくっておいて、植木畑を抜けて古屋さんという学者の洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。下落合の日日は幸福だった。」

五の坂の途中に医学者・古屋芳雄の洋館はあった。というか、ごく最近まではあった。だが取り壊されてしまった。古屋芳雄もただの医学者ではない。白樺派の系譜につながる作家であり、『レムブラント』を翻訳した訳者である。かれの肖像は岸田劉生が「草持てる男の肖像」というタブローに仕上げており、国立近代美術館が所蔵している。

 高群に待たれていた男、平凡社の社員であった橋本憲三であるが、社主の下中彌三郎とともに新たな円本企画である「現代大衆文学全集」を進めていた。この企画の作家側の推進者、協力者が白井喬二であり、白井は父親が鳥取士族の出身であったので鳥取出身の日本画家・橋浦泰雄とはきわめて親しかったし、同人誌仲間でもあった。鳥取人脈で落合地域の住人を探すと、南宋書院の社長である涌島義博と妻で作家の田中古代子が上落合546番地に住んでいる。また1927(昭和2)年に上落合に越してくる作家・尾崎翠も鳥取出身である。古屋芳雄の洋館からまっすぐに五の坂をくだり、当時はなかった西武新宿線の線路を横切り、美仲橋で妙正寺川を渡ると、その少し上流が尾崎翠と松下文子が共同生活した借家の場所(上落合850番地)である。この借家には1930(昭和5)年になると林芙美子が越してくることになる。「放浪記」は1928(昭和3)年に雑誌『女人藝術』での連載が始まる。もとの「歌日記」が書かれたのは落合在住前のことであるが、実際に改造社から『放浪記』が刊行されたとき、林芙美子は上落合に住んでいた。ちなみに、作家・長谷川時雨が始めた女流作家を結集した雑誌『女人藝術』は夫である三上於菟吉が平凡社の「現代大衆文学全集」(橋本憲三が企画を進めた)に収録された小説の印税をもとでに使って創刊された雑誌である。

 話を竹中英太郎に戻そう。協調会発行の雑誌『人と人』の挿絵提供は表紙まで描く時期もあり、その点数が減ることはなく、時期も終刊号まで途切れなく続いた。そして産業組合中央会発行の雑誌『家の光』(1926年5月創刊)への挿絵の提供が始まる。『家の光』には熊本で竹中が世話になった作家の田代倫や隣人である小山勝清が小説を書いている。1927(昭和2)年の時期、『家の光』はまるで竹中英太郎アートディレクションのような様相を呈してくる。本名の竹中英太郎だけでは足りず「沙羅双二」のペンネームも使って大量の挿絵を描いている。本文中につかった挿絵の中でも小山勝清の小説「山國に鳴る女」連載につけた一連の挿絵が素晴らしい出来である。竹中は次にプラトン社を訪問している。プラトン社が発行する雑誌『クラク』の編集部をであった。当時の編集長は西口紫溟である。西口への面会は一刀研二を伴って行われた。一刀研二(本名:松隈研二)は佐賀出身、竹中も福岡生まれの熊本育ちなので、福岡出身の西口編集長を九州つながりで訪問したのかもしれない。それは1927(昭和2)年秋のことである。一刀はおそらくは再上京したばかりの頃、竹中は妻が身籠っており、引っ越しなどの必要もあった、まとまったお金が必要な頃のことだと思われる。西口は二人をともに評価し、『クラク』で仕事をさせることになる。特に竹中の挿絵は専属のデザイナーにしてイラストレーターである山名文夫に見せている。山名は即座に竹中の素質を見抜き、探偵小説に向いていると西口に進言した。西口は山名の判断を尊重した。雑誌『クラク』1927(昭和2)年11月号から探偵小説の挿絵画家として竹中英太郎は活躍するのだった。この時期、まだ竹中は下落合の借家に住んでいた。しかし、この年の年末から1928(昭和3)年3月くらいまでのどこかの時点で市ヶ谷に転居している。それに先立って橋本憲三・高群逸枝夫妻も下落合をあとにしていた。かくしてわずかの期間しか「熊本人村」はなかった。『クラク』でも竹中は重宝されたようで、次第に挿絵の点数が増えていった。専属画家にならないかとの誘いもあったようで、竹中は熊本の母親を迎える準備をしていたようだ。西口のところに一緒に訪問した一刀研二とは1928(昭和3)年5月に創刊された雑誌『左翼藝術』にもともに参加している。この雑誌は左翼藝術同盟の機関誌であるが、同盟には壺井繁治、三好十郎、高見順、上田廣などが結集した。ここに一刀研二は松隈研二として参加している。竹中英太郎も表紙を描くとともにマンガ、エッセイを寄せている。これは一刀研二の誘いによったのではないかと私は考えている。しかし、時代は大きく転換する。左翼藝術同盟は全日本無産者藝術聯盟に吸収統合され、機関誌『左翼藝術』は『戦旗』に吸収された。特に壺井繁治はのちに『戦旗』の編集長になってゆく。ところが、昭和恐慌は銀行にもその牙をむけ、『クラク』を発行していたプラトン社の主力取引銀行であった加島銀行が倒産、廃業するのに伴い1928(昭和3)年5月に雑誌に使う紙を差し押さえられる形でプラトン社は倒産した。竹中英太郎の挿絵が多数掲載された『クラク』の最終号は5月号であった。専属画家を打診されていた竹中はプラトン社からの収入をあてにしていたので、『家の光』の仕事があるとはいえ、とても困ったことだろう。竹中がこの苦境を乗り切るために相談した相手は下落合での隣人であった橋本憲三であった。橋本は平凡社での現代大衆文学全集企画の盟友である作家・白井喬二に相談する。竹中英太郎は現代大衆文学全集にも挿絵を描いていた。白井は紹介状を書いて、横溝正史を訪ねるように言った。当時の横溝は博文館発行の雑誌『新青年』の編集長であった。総編集長格には森下雨村がいるとはいいながら、実質では横溝正史が編集権を握り、編集部員には作家・渡辺温がいた。プラトン社の主力取引銀行である加島銀行の廃業は5月11日なので、この前後でプラトン社の廃業も決まったのであろう。となると、横溝正史を竹中英太郎が訪ねたのはその直後の時期となる。なぜなら雑誌『新青年』7月号には竹中の挿絵がすでに掲載されているからで、白井喬二の紹介状があったとはいえ、その場で採用されたといってもいいスピード感である。7月号への挿絵もおそらくは締切までの時間もなく、編集部で原稿を読んで、その場で描いてみせたのではないにせよ、制作時間はかぎられていたものと想像する。この後の竹中英太郎の活躍はすさまじい。次の挿絵は8月増刊号に掲載された江戸川乱歩の復活長編「陰獣」へのものだった。横溝も自ら勝負だったと言っているように、『新青年』の命運をかけた賭けでもあった。竹中英太郎の挿絵を使った新聞広告が新聞紙面を飾ったし、小説も挿絵も大きな話題になったのであった。

 こうしたその後の竹中英太郎の活躍をみても、下落合の「熊本人村」の存在が大きかったのは明らかである。また、余談ながら戦後に展開される後日譚も面白い。久生十蘭の作品を読むために『新青年』を古書店で買い集めている男がいた。作家にして雑誌編集者であった中井英夫である。中井は代表作となる「虚無への供物」を書いている最中に下落合に転居してきた。しかもその場所は五の坂上。竹中英太郎がデビューした時の借家から徒歩で3分はかからない距離にである。中井は竹中の挿絵画家として最後の作品となる横溝正史の「鬼火」のページ削除箇所が破られていない完全本をたまたま購入してもっていたのであった。これを最終的には横溝に献呈することになったし、竹中とも手紙でやりとりすることになる。そして中井自身は「虚無への供物」を完成させ、下落合で著書『虚無への供物』を手にすることになる。不思議な縁である。従い、『虚無への供物』には下落合界隈を描写したなと思われる文章がときどき顔をのぞかせる。竹中英太郎が「鬼火」のために描いた挿絵原画であるが、ある時期に中井英夫の手元に預けられたことがある。平凡社の『名作挿絵全集』のために「鬼火」の挿絵が掲載されるのであるが、その解説文を中井に書かせるために原画が一時的に預けられたのだった。久生十蘭はパリで佐伯祐三の姪とつきあっていた。それゆえ帰国後も下落合に来ることが多かった。中井は久生が訪れ、見たであろう情景、その面影が残る下落合に住むことで「虚無への供物」を完成させようとしたのだろうか。まさか竹中のデビュー当時の借家があった場所とは知らなかったのだろうと思うが、実に不思議なつながりである。
 橋本憲三と高群逸枝夫妻であるが、橋本憲三は平凡社を辞め、日本の女性史学の創始者となる高群を完全にサポートする体制を作ることになる。アナキストを居候させ、世話を高群まかせにした若き日とは異なり、高群の研究生活を全力で支援したのであった。
 小山勝清は戦前に何冊かの著作を出版。戦後は児童文学分野で活躍、代表作『それからの武蔵』を書いた。1965年に故郷の人吉市に帰って死去している。
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