新宿・落合散歩(5) [落合]

第四章:鳥取県人たち

 落合地域に居住した鳥取県人たちのはしりは日本画家にして民族学研究者である橋浦泰雄である。橋浦の自伝『五塵録』には1920(大正9)年に早稲田から上高田に引っ越してきた当時のことが書かれている。早稲田から上高田へ抜けるには必然的に落合を通り抜けることになる。橋浦のこの本によって当時の落合が「枝柿」で有名であったこと、「落合大根」が名産であったことを知った。以下は『五塵録』の一節。

「大正9年ごろには、早稲田から山手線の高田馬場までは、畑地をまじえながらもどうにか人家つづきだったけれど、線路を越すと一面が畑地で、人家はいわゆる村の形をとって、少家ずつが街道筋にあった。」

「この村は“落合の枝柿”といって枝柿の名所だったが、通りを笹竹で囲った農家の大きな屋敷内に、百年、二百年を経たであろう枝柿の老木が二十本も三十本も、家の棟よりも高く、黒い枝を拳のように振りまわして真っ赤な実をつけているのは偉観だった。そんな農家が何軒もあった。」

橋浦は落合火葬場を抜けた高台にあった2、3の寺に貸間を申し込む。すでに早稲田でも寺に間借りをしていた。その結果、宝仙寺という寺で間借りをすることになる。この貸間には鳥取出身の文化人たちが出入りするようになり、角田健太郎や涌島義博などが来ることが多かった。特に涌島義博は雑誌の同人として、叢文閣の社員として、第二回メーデーへの参加者同士としてなど連携する機会が多かった。涌島にとって、橋浦は同じ道で先を歩く先輩であったのだろう。従い、涌島義博と妻の古代子が上落合に住んだことも橋浦が上高田に住んだことの関連としてとらえるのも不自然ではないものと考える。涌島の上落合の家は早稲田から宝仙寺に向かう道にそった場所にあり、宝仙寺から徒歩で10分はかからない距離であった。橋浦泰雄も涌島義博も1926(大正15)年に結成された鳥取無産県人會の会員となるが生田長江、生田春月、白井喬二、橋浦時雄などとともに尾崎翠も会員として会報に掲載されている。その際の住所は「市外上落合」と記載されている。もちろん尾崎翠が松下文子と上落合850番地に住み始めるのは1927(昭和2)年はじめのことなので、この住所は涌島夫妻の住所地を借りたのだろう。おそらくは東京に出てきたときには涌島夫妻の家に宿泊していたのではないだろうか。3人は鳥取で発行された雑誌『水脈』の同人仲間であった。涌島は1920(大正9)年当時は足助素一の叢文閣に勤務し本作りを学んでいた。叢文閣は足助にとって師である有島武郎の著作集を出版するためにつくった出版社である。橋浦は弟の季雄を通じて1916(大正5)年に有島武郎と知り合う。その年のうちに足助素一とも知り合っている。泰雄は叢文閣で装丁を担当することも多かった。1921(大正10)年の第二回メーデーで橋浦も涌島も検挙されたが、デモの最中に作家・秋田雨雀から雑誌『種蒔く人』の同人でもあった佐々木孝丸を紹介された。第一次『種蒔く人』同人は秋田県人を中心としたが、橋浦や涌島も8月末に文芸誌を鳥取県人を中心に作り上げることにし、『壊人』が10月に創刊された。『種蒔く人』と『壊人』はプロレタリア文学の初期を代表する象徴的な雑誌となる。

 1922(大正11)年11月に鳥取市において水脈社が結成されたが、涌島が中心となったこの雑誌に橋浦泰雄も参加する。1923(大正12)年涌島や尾崎が中心となって水脈社主催の講演会が企画され、4月末に有島、秋田、橋浦が鳥取での講演を行った。直後に有島は心中してしまう。そして震災。鳥取に帰っていた涌島が妻の古代子を伴って再上京してきたのは震災後のことである。落合は震災の被害が少なかった地域であり、かつ震災後の住宅供給のために新築を急いだ地域であったので、そうした一軒に二人は住んだのかもしれない。南宋書院をおこすのは1926(大正15)年のことのようだ。多くの本が翌年の1927(昭和2)年~28(昭和3)年に集中している。林芙美子の詩集『蒼馬を見たり』は南宋書院から1929(昭和4)年に出版されているが、尾崎翠の紹介、松下文子の資金援助があってのことだった。涌島の妻である田中古代子は筆名を北浦みほ子と名乗り『大阪朝日新聞』の懸賞小説に「諦観」が当選するなどした作家であるが、鳥取県下初の女性記者でもあった。尾崎翠は1927(昭和2)年に上落合三ノ輪に越してきてから1932(昭和7)年鳥取に兄によって連れ戻されるまで上落合(850番地、842番地)に住んだ。上落合にあった映画館・公楽キネマには大家の奥さんとよく出かけたようである。公楽キネマは村山知義、籌子の家の裏にあり、籌子もよく見にいったので映画館の闇の中でふたりは出会っていたのかもしれない。また、尾崎翠は上落合599番地に住んだ板垣鷹穂、直子夫妻のところをよく訪問した。尾崎の代表作「第七官界彷徨」は板垣鷹穂が編集主幹をつとめた雑誌『新興藝術研究』2号に全文掲載された。尾崎翠の小説には落合の風景がふんだんに書かれている。その風景があまりに変ってしまって想像するのが難しくなっているのが寂しいのであるが。
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