新宿・落合散歩(6) [落合]

第五章:新興写真の故郷としての落合

 新興写真の紹介に本格的に取り組んだのは、雑誌『フォトタイムス』である。発行主体はフォトタイムス社であるが、親会社は西落合・葛ケ谷にあったオリエンタル写真工業である。オリエンタル写真工業は、印画紙や写真フィルムを製造、販売、輸入をする会社として1919(大正8)年に菊地東陽によって創業された。同社が葛ケ谷に工場を建設したのは1920(大正9)年のことであった。西落合は風致指定地域であったこともあり無理な開発はせず、まわりの緑を活かしての工場作りを行った。1924(大正13)年 同社の企画宣伝課内にフォトタイムス社を設立、3月に雑誌『フォトタイムス』を創刊した。創刊時の編集主幹は木村専一であった。1929(昭和4)年3月から木村は雑誌内に「モダーンフォトセクション」というコーナーを設定し、欧米の写真の新動向、つまり新興写真の紹介を行った。これが日本の写真界に大きな影響を与え、雑誌購読者や写真掲載者の中から日本における新興写真の担い手が数多く登場することになった。そして、1930(昭和5)年に木村専一が結成した新興写真研究会につながっていった。新興写真研究会の主要メンバーは木村のほかに堀野正雄、渡辺義雄、伊達良雄、古川成俊、三ツ村利弘などがいた。また、花輪銀吾や福田勝治、のちに『光畫』で活躍することになる飯田幸次郎もそのメンバーであった。1930(昭和5)年11月に『新興写真研究』という会誌を発行、会員の写真作品や板垣鷹穂、堀野正雄などの論文を掲載した。1931(昭和6)年1月に発行された第2号に飯田幸次郎は写真を提供している。1931(昭和6)年7月発行の第3号をもって、木村の渡欧によって『新興写真研究』は休刊したが、展覧会は1932(昭和7)年までの期間で合計7回開催されている。日本における新興写真の動きのなかで、西落合という場所、オリエンタル写真工業という会社、フォトタイムス社という出版社が果たした役割は相当大きかったものと考えている。また、オリエンタル写真工業は1929(昭和4)年にオリエンタル写真学校を設立する。当初の目的は写真界の全体的なレベルの向上、写真技術の伝達とオリエンタル写真工業製品への認知度を高め、製品の普及を図ることであったが、化学や芸術学といった領域に及ぶ広範な教育カリキュラムが組まれ、写真家育成の総合的な教育機関として多くの写真家を育成した。卒業生には映画監督の木下惠介、画家の瑛九、写真家の植田正治、林忠彦などがいる。

 一方、落合地域という場所によって写真を考える場合、その中心として考えるべきは堀野正雄である。堀野は戦前期には珍しいプロフェッショナルな写真家をめざし、そうなった数少ない写真家であった。堀野は写真家としての活動の最初期、築地小劇場の舞台写真を主に撮影していた。そしてそんな時期に村山知義の三角のアトリエの家に居候していたようだ。村山の友人には俳優の山内光がいた。山内は本名を岡田桑三といい、村山と同時期にドイツに留学していた。1924(大正13)年に帰国、役者として築地小劇場に参加している。その後、1926(大正15)年には日活に入社、1928(昭和3)年に松竹蒲田に移籍、その間、映画俳優として活躍するのだが、もともとクリエイター志向であったので、映画俳優だけでは満足しなかった。1929(昭和4)年、映画技術の視察を名目にモスクワ経由でソ連、ドイツへ旅行、エイゼンシュテインやメイエルホリドといった演出・制作側の巨匠と親しくつきあっている。日本帰国後は村山知義や堀野正雄と共に国際光画協会を設立した。国際光画協会の活動で新興写真の流れを牽引したイベントに「独逸国際移動写真展」がある。日本での開催は1931(昭和6)年のことである。もともとはドイツ・シュトゥットガルトで1929(昭和4)年に開催された「Film und Foto」展であり、その写真部門のみを日本への巡回展にしたてたのであった。新宿紀伊国屋で開催された展覧会は、写真作品が1000点以上もあった大規模なものであったし、欧米の新興写真を代表するラースロー・モホイ・ナジ(バウハウス)、ベレニス・アボット、アンドレ・ケルテス、ウジェーヌ・アジェらの写真が展示され、質的にもレベルが高く、これを見た多くの写真家に影響を与えた。岡田桑三は展覧会招聘の中心として活躍したが、この展覧会を通じて、その後つきあいが深くなる木村伊兵衛と知りあうことになる。また、関西新興写真の代表格の一人、安井仲治とも知りあうことになった。ドイツからの展覧会の招聘ということもあって村山知義は尽力したようであるが、村山は写真に興味はあっても表現手段としての写真に取り組んでいないのは不思議な気がする。堀野正雄は展覧会招聘の中心にはいなかったようだが、この時期には機械美学の提唱者であり、やはり上落合の住人である板垣鷹穂とのグラフモンタージュの制作に励んでいたものと考える。板垣鷹穂は未来派にも通じるのだが、機械や建築といった機能的なデザインに注目し、その優秀さと美との一致を提唱した美学者であった。板垣の『機械と芸術との交流』(1929年 岩波書店)や『優秀船の芸術社会学的分析』(1930年 天人社)、『芸術的現代の諸相』(1931年 六文館)には1920年代を象徴する産業構造上の革命によって生み出された建築、鉄橋、鉄塔、広告塔、ネオンサイン、看板、船舶、機械などが美学の対象として取り上げられ、その図版として堀野正雄の写真が使われている。また、その写真図版の組み合わせ方が独特であり、単に写真を一枚一枚見せるのではない、組み合わせによって一連の写真が意味をもったり、形の類似をまとまりでみせたり等している。こうしたモンタージュの技法はこの時期の板垣鷹穂と堀野正雄との共同制作の大きな特徴であり、グラフ・モンタージュと呼ばれた。雑誌に掲載された代表的なグラフ・モンタージュは『中央公論』1931年10月号の「大東京の性格」である。板垣鷹穂構成、堀野正雄撮影によるコラボレーション企画である。こうしたグラフ・モンタージュの制作・構成方法論は、その後の日本工房や雑誌『NIPPON』や『FRONT』にも継承されていったものと考える。堀野正雄はこうして撮影した写真たちを一冊の写真集にまとめた。それが1932(昭和7)年に刊行された名作『カメラ・目×鉄・構成』である。グラフ・モンタージュは板垣以外との共同制作にも応用される。雑誌『犯罪科学』1931(昭和6)年12月号には村山知義構成、堀野正雄撮影による「首都貫流―隅田川アルバム」が掲載された。グラフ・モンタージュに関わった三人はすべて上落合に住んでいた。板垣鷹穂は上落合599番地、中井駅から西へ向かった現在では山手通のそばに住居があった。堀野正雄は中井駅から下落合側に少し歩いた大正橋の近くにスタジオを構えていた。村山知義は上落合186番地、小滝橋の近くにあった三角のアトリエの家に住んでいた。三人がともに住んだ上落合はグラフ・モンタージュの故郷といえるのかもしれない。山内光であるが、村山知義の妻である籌子から獄中の知義にあてた手紙によく登場する。村山の長男の亜土と遊んだり、上落合にあった公楽キネマに籌子とともに映画を観たりといった記述を読むと、この時期には上落合に住んでいたのではないかとも思われる。たとえ住んでいなくとも相当頻繁に訪問してきていたことになる。新興写真の初期において重要な役割を果たした堀野正雄ばかりではなく、写真理論の牽引車の一人である評論家・板垣鷹穂も、村山知義も山内光も落合に深いかかわりをもっていたことになる。
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