新宿・落合散歩(9) [落合]

第七章:落合ソヴィエト

 村山知義の妻、籌子から獄中の知義への手紙を読むと(『ありし日の妻の手紙』)、二人の間の長男である亜土のことを書いており、「最近アドちゃんはピオニール活動に夢中で・・・」というくだりがある。革命後のソヴィエト連邦においては、共産党の下部に10歳から15歳までの少年少女たちを構成した組織が形成され「ピオニール」と呼ばれ、さまざまな活動を行ったが、上落合地域においても日本版ピオニールが形成され活動が行われたのであろうことがわかる。治安維持法違反の疑いで村山知義が獄中にいたのは1930(昭和5)年5月20日からであり、この頃の上落合は「落合ソヴィエト」と呼ばれるようにプロレタリア文学者、美術家、演劇人、映画関係者などが集まり住んでいた。この集合の発端は1928(昭和3)年にある。関東大震災後の日本は一方で普通選挙を約束しながら、他方で治安維持法を成立させ、年々その適用範囲を広げ、罰則を厳罰化していった。1928(昭和3)年は初めての普通選挙が行われるタイミングであったが、同時に労農党や労働組合を弾圧する機会にもされていた。小林多喜二が小説「一九二八・三・一五」に書いたように3・15事件がおき、党員や組合幹部は検挙され、苛烈な拷問にさらされることになった。この動きに呼応するようにプロレタリア陣営は蔵原惟人の呼びかけのもと結集し、全日本無産者藝術聯盟をつくった。この本部が置かれたのが上落合であった。場所は村山知義と籌子の三角のアトリエの家から下落合駅の方に向かう道に沿った場所である。もともと村山知義は純粋芸術志向であって社会主義的ではなかった。前衛芸術集団マヴォの時期、社会主義的志向をもっていたのは柳瀬正夢であり、村山をオルグしていたのも柳瀬であった。だが、初期の村山は社会主義に関心をもたなかった。村山に変化が生じるのは籌子と結婚した後である。籌子は詩人にして童話作家であり、雑誌『婦人之友』の記者であったが、社会主義的な志向を強くもってもいた。煮え切らない夫を叱咤激励したものと思われる。また、知義も震災後の築地小劇場に関わり、社会主義的な考え方に接する機会が増えていた。柳瀬は初期の社会主義思想家たちのよってたつ基盤となった雑誌『種蒔く人』の同人であり、「無産者新聞」や長谷川如是閑や大山郁夫の雑誌『我等』に深くかかわってゆく。また『文藝戦線』の同人でもあった。『文藝戦線』は1927(昭和2)年7月に分裂結成された労農芸術家連盟の機関誌である。いわゆる「労藝」は日本プロレタリア芸術連盟を除名された蔵原惟人、葉山嘉樹、小堀甚二、前田河広一郎などが中心になってつくったグループ。ここには村山や柳瀬、落合在住の山田清三郎や平林たい子などが参加している。山田清三郎は『文藝戦線』の編集としてこの機関誌に深くかかわっていた。平林は小説を執筆、柳瀬や村山は表紙を描いたりしている。この当時小樽にいた小林多喜二は分裂後の労藝に加わっている。11月、編集に携わっていた山田が山川均に依頼したエッセーをめぐって内部対立が生じ、掲載に反対の立場をとった蔵原惟人、山田清三郎、藤森成吉、村山知義などが脱退、前衛芸術家同盟を新たに結成した。機関誌は『前衛』である。それから数カ月後に3・15事件を迎え、蔵原の提唱により全日本無産者藝術聯盟が成立したのだった。ここには日本プロレタリア藝術聯盟の鹿地亘や中野重治、左翼藝術同盟の壺井繁治や三好十郎、上田廣なども参加することになった。まさに左翼各団体が結集する形になったのであった。この本部が上落合におかれた。また近隣には日本プロレタリア作家同盟や国際文化研究所、戦旗発行所などが配置され、多くの関係者が上落合に越して来た。この地域に入ってくる時期に多少の前後はあるが、下落合側から中井側にたどるならば、住所は戸塚ながら窪川稲子、芹沢光治良、佐々木孝丸、中野重治、武田麟太郎、鹿地亘、村山知義、村山籌子、神近市子、黒島伝治、壺井繁治、壺井栄、蔵原惟人、小川信一、立野信之、宮本百合子、山田清三郎、上野壮夫、小坂たき子、今野大力、片岡鉄平、画家の柳瀬正夢、松山文雄などがいる。また、労藝に残った平林たい子も落合地域に居住していた。純粋なプロレタリア文学者ではないが、林芙美子も1930(昭和5)年に上落合に越してきたので、三軒茶屋で軒をならべていた林、平林、壺井という3人の女性作家がふたたび上落合において結集したことになる。また、今まで落合散歩に登場させた人物との関係でいえば、佐々木孝丸を取り上げる必要がある。佐々木は演劇人であるが、『種蒔く人』に参加、同人になっている。ちなみに『種蒔く人』の表紙を描いたのは柳瀬正夢であり、爆弾がデザインされた過激なものだった。佐々木は新宿中村屋サロンでの朗読や演劇などのつながりから秋田雨雀や有島武郎と交流があり、第二回メーデーの際には秋田雨雀の紹介で鳥取出身の橋浦泰雄や涌島義博と知り合っている。橋浦は鳥取出身者によって発行された『壊人』にかかわっていたので、秋田の『種蒔く人』と鳥取の『壊人』とが出会った瞬間ともいうことができる。何冊かの翻訳の著作がある佐々木であるが、革命歌「インターナショナル」の日本語訳詞も佐々木孝丸のもの。佐々木は村山の家のすぐ近くに住んでいた。1898年北海道・標茶の生まれ。戦前の演劇人、思想家の印象が強いが、戦後も役者を続け、数多くの映画やドラマに出演している(仮面ライダーにも出演)。佐々木の『風雪新劇志 わが半生の記』にはこの時期の落合での生活ぶりが描かれている。佐々木は落合への愛着が深かったのか、ペンネーム「落合三郎」名義での執筆もしている。この佐々木孝丸、橋浦泰雄、柳瀬正夢との関係は面白く、演劇での佐々木と柳瀬、絵画における橋浦と柳瀬(橋浦は日本画家である)、生協活動における橋浦と柳瀬など協力関係や協業、共通点などがある。作品頒布会という仕組みで、絵画作品を販売する方法でも橋浦も柳瀬も共通して頒布会を運営されたが、橋浦の購入者には柳田國男が常にいた。橋浦泰雄は民俗学者として柳田の弟子であり、柳田は橋浦を大切に考えていたに違いない。

 全日本無産者藝術聯盟の下部に組織された日本プレタリア作家同盟の会合は上落合の村山の自宅でも開催されたようで、東京に出てきてからの小林多喜二も出席していた。このことは村山知義と籌子のあいだに生れた長男、村山亜土の『母と歩く時』にその記述がある。三角のアトリエで開催された例会の際に多喜二の膝にだっこされた思い出が書かれていて、ほほえましい。後に多喜二が非合法な共産党の党員になり、地下にもぐった際には、その連絡係を母である籌子が担当したことを思うと、余計に印象深い描写である。
 のちに直木賞作家となる立野信之は機関誌『戦旗』の編集に関わっていた。『青春物語・その時代と人間像』には当時のことが書かれており、上落合の国際文化研究所に居住していたこと、蔵原惟人から小林多喜二の「一九二八・三・一五」の原稿を預かり、立野が一部を伏字に直して『戦旗』1928(昭和3)年11月号、12月号に掲載した際の経緯が書かれている。これによれば、蔵原も国際文化研究所に立野と同居していた時期があったようだ。1930(昭和5)年、村山知義、立野信之、中野重治、小林多喜二といったプロレタリア作家同盟のメンバーたちは次々に検挙されていった。共産党への資金提供の容疑であった。もちろん『赤旗』は非合法であり、ひそかに回し読みされていた。このとき、蔵原はソ連を訪問していたために検挙を免れた。ソ連からひそかに帰国した後、村山籌子の手引きにより釈放された立野信之と小林多喜二とは蔵原と面会している。多喜二は蔵原との面会を強く望んでいたが、籌子の仲介により実現できたのだった。

 全日本無産者藝術聯盟の機関誌である『戦旗』。表紙は村山知義、柳瀬正夢、松山文雄などが描いた。とくに柳瀬のものは傑作であった。初代の編集長は山田清三郎、のちに壺井繁治が担当する。『戦旗』にはプロレタリア文学の傑作といわれる、徳永直の「太陽のない街」や小林多喜二の「一九二八・三・一五」や「蟹工船」などが掲載された。落合の地名は妙正寺川と神田川が合流する場所に由来する。この合流点は現在の西武新宿線の下落合駅の少し東側にあった。このそばに窪川稲子は住んでいた。ここを起点に落合ソヴィエトを歩いてみよう。現在の下落合駅の西側を通る上落合中通りを南に向かい、中通りと八幡通りの間の土地に全日本無産者藝術聯盟本部がある。その道をはさんだ向かい側にプロレタリア作家同盟があり、ここには武田麟太郎が住んだ。すぐ南側には佐々木孝丸が、すこし西側に中野重治がいた。八幡通り側には芹沢光治良や鹿地亘がいた。現在の月見ヶ丘八幡宮の前を通り進むと村山知義、籌子の住む三角のアトリエの家がある。その先の昭和通り(現在の早稲田通り)には籌子や作家の尾崎翠、林芙美子が訪れていた映画館、公楽キネマがあった。籌子は山内光とともに「傾向映画」を公楽キネマで見ていた。三角のアトリエから西に向かうと上落合中通りにでるが、その下落合駅よりには神近市子が住んだ。中通りを突き抜け、さらに西へと向かうと左手に黒島伝治、壺井繁治、栄がいた。右に路地を入ると国際文化研究所があり、蔵原惟人や立野信之、小川信一がいた。通りをさらに西へむかうと中井にでる。中井の妙正寺川にそった場所には戦旗発行所がおかれていた時期がある。中井駅を超えて小学校の南側に宮本百合子は住んだ。山手通りにでて板垣鷹穂の家の前には柳瀬正夢が一時住んだ。板垣邸の北の路地を西に入り、道なりにさらに北にむかうと山田清三郎がいた。さらに北に向かうと落合火葬場に向かう道にでる。少し西にむかい北に入ると尾崎一雄が「なめくじ横丁」と呼んだ長屋があった地域にでるが、ここには壇一雄や尾崎一雄も住んだが、上野壮夫・小坂たき子が住んでいた。さらに北に向かうと坂をくだり低地になる。ここは三ノ輪と呼ばれる場所で尾崎翠や林芙美子がいた。そこからさらに北に向かうと妙正寺川を美仲橋で渡り、中井五の坂を登ることになる。坂の途中には林芙美子が住んだ洋館があり、さらに坂を登ると坂の中腹に古屋芳雄の洋館がある。坂を登り切った高台の上には吉屋信子がいた。1925(大正14)年にはこの台地にアナキストの橋本憲三、高群逸枝、挿絵画家の竹中英太郎、作家の小山勝清が住んでいた。さらに北の地域に平林たい子や片岡鉄平がいた。また画家の松山文雄や出獄後の柳瀬正夢が住んだアトリエ(急逝したサンサシオンの松下春雄のアトリエ)があった。
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