雑誌『フォトタイムス』とモダーンフォト(2) [落合]

オリエンタル寫眞工業には映画の撮影所もあり、「オリエンタルパーク」と呼んでいた。8月30日、岡田嘉子一座がロケーションを行った。カメラは堀野正雄が担当した。全長400尺のものをネガの現像からポジへの焼付までをオリエンタルのシネマ技術部が一晩でやってのけたという。また河合プロもオリエンタルパークでロケを行っている。11月号において木村專一は寫眞造型作品、つまり「ホトプラスチック」を紹介している。ホトプラスチックは広告写真に応用され、広告対象を造型的に撮影することで対象を強く印象づけることが可能になるとしている。12月号ではポスターに使われる写真を取り上げている。ここでも写真はマスに訴えかけるためのメディアとして紹介されている。1930(昭和5)年2月号では純粋に「廣告寫眞」を取り上げ、雑誌広告での写真の使用例を具体的に紹介している。また同じ号で、山内光が「ドイツで開かれたフイルムとフオトの國際展覧會に就て」を書いている。山内は「松竹蒲田撮影所、國際光畫協會員」の肩書をもって紹介されている。本名は岡田桑三、山内光は映画俳優としての芸名である。ドイツに留学、帰国後は築地小劇場や日活で役者として活躍、1928年に松竹蒲田撮影所に移籍していた。1929年は山内にとって激動の年で、3月には右翼によって刺殺された労働農民党の代議士の山本宣治の葬儀の様子を記録映画として撮影したが、この実行も大きな困難を伴った。その後、蒲田撮影所長に資金を提供させてヨーロッパへの映画技術に関する視察旅行に出かけている。モスクワとベルリンを中心に訪れた。この視察旅行を通じて山内はエイゼンシュテインやメイエルホリドと親しくなった。この旅行の際に山内は5月に南ドイツのシュツットガルトで開催された世界最初の國際映畫寫眞の綜合展覧會を観覧する機会に恵まれた。『フォトタイムス』1930(昭和5)年2月号に書かれた報告は、まさにこの展覧会の紹介であった。第一部の寫眞展覧會の撮影委員にはヤン・チヒョルトが名前を連ねており、驚いた。協働者にはモホリ・ナギ教授、アメリカのエドワード・シュタイヘン、ロシアのエル・リシツキイ教授などが名前を連ねている。出品者180名、出品数1,168点に及んでいた。マン・レイやエル・リシツキイ、エインゼンシュテイン、シュタイヘンなどの作品が展示された。この写真部門の展示のみを日本に招聘、1931(昭和6)年に「独逸國際移動寫眞展」を國際光畫協會として開催。山内はその中心的なプロデューサーとして活躍した。この展覧会は多くの写真家たちに影響を与えることになる。この展覧会を通じて山内光は木村伊兵衛と親しくなった。この出会いが雑誌『光畫』への岡田桑三の参加につながり、1933(昭和8)年の日本工房への参加につながった。岡田はのちに東方社の理事になる。東方社では木村伊兵衛とともに雑誌『FRONT』を発行することになる。この写真展で木村伊兵衛をはじめとする多くの写真家と出会ったことが、岡田の人生にとって大きな変化の起点にもなったが、日本写真界における新興写真の受容に果たした役割も大きかった。1930(昭和5)年5月号に村山知義が「寫眞帖と寫眞家團體」というエッセイを書いている。ここでは写真家団体について書いた部分を紹介したい。

随分澤山の寫眞家の團體があるが、多くは同好者相ひ會し、時に展覧會を催すと云ふ程度のものでしかない。その展覧會も自分の作品を並べる便宜上、他人も引きずり出すといふ個人主義的な展覧會で、何かのテーマのために展覧會全體をさゝげ、各個人がその為に技術を提供するといふやうなものはない。同時にその團體も、或ひは自分の名前を賣るためのものでしかない。

この定義にもっともあてはまるのは「ブルジョア寫眞家團體」だと規定している。そしてブルジョア写真家である以上は個人主義的であるのは当り前であり、「技術上の研究的な團體すら作らせない程度に迄達している」と論じる。一方、左翼の芸術家の結成は文学、演劇、映画、美術等に亘って作られているが、当然、写真家のそれも作らねばならないのにできていないのは不都合である、としている。僅かに映画同盟や美術家同盟や演劇同盟に付随して少数の技術家のあるにすぎない、これを速やかに一つの独立した同盟に成長させるべき、だと結論する。文学関係は日本プロレタリア作家同盟、略称「ナルプ」。映画関係は日本プロレタリア映画同盟、略称「プロキノ」。演劇関係は日本プロレタリア劇場同盟、略称「プロット」である。この村山の提言通り、のちに日本プロレタリア写真同盟、略称「プロフォト」が結成される。このプロフォトの初代委員長はプロレタリア文学作家である貴司山治であった。代表作は「ゴー・ストップ」である。プロフォトの本部は下落合2080番地 久保田方。中井駅から三の坂を登った高台あたりにあった。村山はこうした写真団体の実例としてソヴィエト・ロシアのスコエ・フォトやルス・フォトをあげる。ドイツでは「労働者寫眞家」という組織があって『AIZ』の労働者絵入新聞に写真をさかんに提供するなどしていた、と報告する。『AIZ』は「アー・イー・ツェット」と発音する、労働者画報雑誌。写真大判タブロイド紙の形式で週刊で発行された。その誌面はジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュが多数使用されている。これも写真における前衛のあり方であったのだろう。現に写真によるグラフ雑誌の源流をたどるとドイツの婦人解放運動の機関誌や『THE USSR IN CONSTRUCTION』に達する。『THE USSR IN CONSTRUCTION』にもジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュが使用されている。ジョン・ハートフィールドといえば弟・ヴィーラント・ヘルツフェルデ、ジョージ・グロッスらと共に1916(大正5)年にベルリンで「マリク書店」を創設している。アプトン・シンクレアの1925(大正14)年の一連の著書はジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュによる装丁がされているが、素晴らしい表紙になっている。村山はベルリン留学中にマリク書店を知っただろうし、ジョージ・グロッスとともにジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュについても知っていただろう。また、前述のグラフ雑誌も送ってもらい見ていたものと考える。
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