たいせつな風景・S市点描「 「水へ。流れはどこに向かうか」(2) [小説]

 S市は北側が平野にひらけていて日本海まで平らだが、西側と南側には山が迫っていた。南の山地を水源とした大きな川が南から流れ込んで扇状地を作りあげ、そのまま都市の中心をかすめながら東側へと抜けたあとに、より大きな河に合流して西に向かい日本海に流れ込むのだ。冬の間に大量に山間部に降り積もった雪は春の強い日射しによって澄んだ水に変わり、この川に豊かな水量をもたらしていた。僕が住んだあたりのこの川は川幅が広く、さざなみをたてながら勢いよく流れていて、川辺には葦が茂っていた。雪解け時期の水は冷たかった。川原に降りていたずらに足を流れに浸すとしびれるような冷たさで、まるで刃物を肌にあてられているようだった。「昔は『トゥイェ・ピラ』と呼んでいたらしいわ。もちろん語源はアイヌ語」と瑞枝さんは言う。少し足をつけるや「キャッ」とすぐに石の上に飛んだ。どこからかニセアカシアの花の香りを含んだ風が吹いてきて瑞枝さんの髪をゆすっている。水によって反射する光線がまぶしかった。逆光の波のむこうに幻のようにビル群が見えた。夢のような光景だった。

 この大きな川をゴムボートで下ったことがある。大学の先輩になかば騙されてボートに乗った。川を下り始めた時には流れが早いのでスリルがあって楽しめた。だが、本当のおそろしさは下流にこそあった。川は下流にいくにつれて多くの支流をあわせて川幅を拡げる。そしてゆったりとした流れに変わる。ゴムボートの中ではやることが次第になくなり、余裕で流れに身をまかせた。だが、この油断がくせものだった。川はより大きな河との合流点に迫っていた。合流する大河ははるか中央山脈から流れてきており、膨大な水量と削り取った岩や泥を巻き上げて濁った逆巻く流れを形成していたのだった。ゴムボートは激しくゆすられ、制御など全くきかずに落葉のように翻弄された。大河のどまんなかに押し出されてしまってから初めて命の危険を強く感じた。岸には寄せられない。このまま海まで流されるのではないかと思った。ゆるやかにみえる流れも錯覚で、中にいると激しく早かった。橋げたが迫ってきてもオールを操って、ぎりぎりにぶつからないように避けるのが精一杯だった。小型の漁船が近づいてきた。マイクを船長が握っている。

「おまえらぁ、どこぅからきたあ。このままだと海にでちゃうぞう」

「T川からですぅ」

「かってにしろぅ」。

近くに三日月湖があってそこが公園になっている。ボートの貸出しもしているので、そこから観光客が迷い出てきたのだと勘違いしたらしい。でも、勝手にしろと言われても、岸につけないかも・・・だった。運がよかったのは満潮に向かう潮目だったことだ。河口に近づいて流れの速度が落ちた。機をのがさずに河口に近い岸にあがった。生きているのが不思議なほどだった。瑞枝さんにこの冒険のことを話すと「馬鹿!」と真剣に怒られた。口に含んだ瑞枝さんのコーヒーが苦くて、でもおいしかった。こわい目をしたのはほんの一瞬であった。「おなかすいてない?」ときかれて減っていると答えると、瑞枝さんは自分用に作ってきた弁当を差し出した。僕らは半分にわけあって食べた。

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たいせつな風景・S市点描「水へ。流れはどこに向かうか」(1) [小説]

 「火を貸してくれないか」という言葉に振り返ると、長髪で背の高い男の笑顔があった。H大学教養学部に付属した食堂で遅めのランチを食べおわってソファで煙草をふかしていた時のことだった。ライターを差し出すと「どうも」といって受け取ると両切りのキャメルに火をつけた。それがRyuとの出会いだった。Ryuとは第二外国語の選択が違ったので、クラスも違っていた。あるいは何かの講義では一緒だったかもしれないが、お互いに気にしたことはなかった。Ryuは僕に連れがいない一人きりだとわかると「坐ってもいいか」ときいた。「どうぞ」と答えると僕の前のソファに腰かけた。お互いにどこのクラスなのかとか、講義はなにをとっているのかなど当たりさわりのない会話をした。その間、何本もうまそうにキャメルをふかした。

 Ryuはちょっと迷った様子を見せたが、「いきつけの喫茶店があるんだけれど、いってみないか」と誘ってきた。初対面ではあったが、話しているうちに僕に何かを感じたのかもしれない。S市出身で浪人もしてH大学に入学してきたRyuには、すでに仲間もいればいきつけのサテンもあって当然だのに、なぜ僕を誘うのかよくわからなかった。医学部の脇をぬけると広い通りに出る。そこを突っ切ると「DUG」はあった。「いらっしゃい」とカウンターの奥からやわらかい声がした。瑞枝さんはやさしい笑顔で迎えてくれた。常連が並ぶのだろうカウンターに座った僕はまわりを見まわした。どうやらH大学の学生もいるが、近くにある女子大学の学生が多いようだった。瑞枝さんが作るケーキがその原因であるのだと知るのは少し後のことだ。Ryuだって僕のことをよく知らないくせに、瑞枝さんには昔からの知り合いのように紹介した。「ご注文は」の笑顔が美しかった。S市は水がおいしい。だからだろう、古くから喫茶店文化が花開いていた。一般的にいってどこのコーヒーもおいしいのだ。「ブレンドをください」「かしこまりました」豆をひいてドリップする。カウンターには大きな青い花瓶があってユリの花がいけてあった。その白い花弁に黄色い花粉が散っているのが見えた。ユリ独特の匂いが揺れていた。入ってくる常連らしき面々が次々にRyuに声をかけてくる。「ねえ、ここにはいつも?」「うん、出入りしだしたのは高校生の時からだからね。浪人の時はほとんど毎日来ていたかもしれない」「ねっ」とRyuは瑞枝さんにウインクした。瑞枝さんはいたずらっこをあやすような表情をした。僕はグラスの水を飲みほした。僕も常連になるのだろうなと予感した。

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