たいせつな風景・S市点描「はじまりは平手打ち」(2) [小説]

 シオンと僕はそれからたびたび会うようになった。北側に住んでいるとS市の南側にはあまり来ることがないようで、僕が南に住んでいることを知ると、南に行ってみたいと笑った。S市には梅雨がない。だから6月は気持ちのよい晴天が続く。シオンは地下鉄で街の中心部に出てきた。そこで待ち合わせて路面電車に乗った。電車ははじめ西に向かうがやがて南にむかって左折する。そのあたりは平屋の民家がつらなっている生活感のあふれる住宅地だった。青い空のした道路の脇に植えられたライラックの花が咲く。「リラ冷え」の季節でもあるが、晴れれば気持ちのよい気候だ。南に直進する路面電車の窓にM山の裾野が間近にひろがると電車はふたたび左折する。その手前でおりた。目の前の道は急な坂になる。シオンは目をみはっていた。「S市にも坂ってあるんだね。北の方に住んでいると山があるなんてわすれてしまうものね。」と微笑んだ。M山に登るこの道はさらに険しい坂になり、やがてロープウェイの乗り場になるのだ。乗り場のまわりにはライラックが何本もあり、美しく花を咲かせていた。その香りにむせてしまいそうだった。シオンは僕の腕にしがみつくようにし、「ねえ、ロープウェイ、乗るよね」とうれしそうに笑っていた。平日の日中のためなのかゴンドラにはシオンと僕の二人きりだった。窓からはS市の全景がひろがって見えていた。思いのほか美しい光景だった。眼下の山肌には新緑が萌え、所々に花も咲いていた。僕の腕の中で後ろ向きに抱かれながらシオンは眼下のS市にみとれていた。巣篭もりしているヤマネのようだった。ゴンドラの窓からの光が僕のヤマネを暖かく包んでいた。僕たちは幸せな気持ちを感じていた、のだと思う。

 シオンからの電話に呼び出されて彼女の家に出かけたのはライラックの花が満開になった晴れた日だった。僕に食べさせたいものがあるということだった。呼び鈴を押すとドアを半分開けて「はいって。はいって。」とうながされた。シオンの姉さんもいて、笑顔で僕を迎えてくれた。シオンのリクエストでドイツ産の白ワインを持参していた。窓からは満開になったライラックの香りがはいってきていた。「ライラックって何科に属しているか、ご存知かしら」と姉さんにきかれたが、僕にはわからなかった。「彼らはねえ、紫蘇科なのよね。だから食べられるのも当然かしらね。」さっきからシオンが台所で格闘しているのはどうやらライラックらしい。そのうち、油で何かを揚げる音が聞こえてきた。「へえ、じゃあ料理しているのはライラックの天婦羅ですか。珍しいですね。」「そうね、あなたの地方ではライラックの花を見ることも少ないでしょうからね。花の天婦羅なんて想像できないかもしれないわね。」S市に移り住んでからというもの空気感や気温ばかりではなく文化の差や言葉の差も感じた。最初に気がついたのは町の色だった。それは屋根が瓦ではなく鋼板に着色がされていたことが原因でのことだった。ひとめ見渡した時の町全体の色彩が南の地方とは違っているのだ。それほどあちこちに原色が点在しているのだった。あるとき「こわい。こわい」といわれたので、真剣に「幽霊でも見たの」と質問をし、大笑いされたものだった。そうして失敗をしながら、ひとつひとつ学んで順応してきたのだ。窓からは心地よい風が吹き込んできて姉さんの髪を揺らし、シオンの首に吹き付けた。それは、まるでライラックの風だった。

nice!(10)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。